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山形県 · 江戸時代 · 近世

Safflower and the Mogami River: Yamagata's Trade with Kyoto and Osaka

紅花と最上川―山形と京都・大坂を結んだ交易

江戸時代、山形の紅花から作られた紅餅は最上川と海を経て京都・大坂へ運ばれ、その帰りには富と品物、上方の文化が山形へもたらされた。

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2025年7月に撮影された、山形県河北町の紅花畑。黄色と赤みがかった橙色の花が咲いている
2025年7月、山形県河北町の畑に咲く紅花。掬茶, 2025-07-12 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International · 出典 · 縮小して掲載

江戸時代、紅花からとれる赤い染料が、山形の内陸の盆地と京都・大坂という大都市を結んでいた。最上川沿いの畑で育った紅花は染料の塊に加工され、川舟と北前船で上方へ運ばれた。上方では、絹織物の色や、唇にさす紅になった。

この交易は、山形の農家や商人に大きな富をもたらした。同時に、上方の品物や文化が川をさかのぼって山形に入り、その多くを今も地域で目にすることができる。

日本一の紅花の産地

山形県によれば、最上川流域の紅花の栽培と染料用の加工は、室町時代末期から約450年の歴史をもつ。地元では、紅花は山寺を開いたと伝わる慈覚大師円仁、あるいは二世の安然大師によって伝えられたと言われている。

県の日本遺産のページによれば、山形県中央部の村山地域は、江戸時代には日本一の紅花の産地として知られた。江戸時代初期には全国の生産量の50〜60%を占め、質・量ともに日本一だったという。

同じページは、この土地が紅花に向いていた理由も説明している。最上川がもたらした肥沃な土と、朝霧の立ちやすい気候が、良い紅を多く含む紅花を育てた。そして朝霧は、トゲのある紅花を摘みやすくした。

生産者は今もこうした条件を生かしている。県によれば、ほかの作物との輪作や有機質の資材を使って、同じ作物を続けて植えることによる障害を避けてきた。摘み取った花びらを、染めに適した形に自ら加工する技術も受け継がれている。

花びらから「紅餅」へ

その形が「紅餅(べにもち)」である。県の日本遺産のページによれば、村々の紅花は「花買い」と呼ばれる商人が買い集めた。紅花商人の屋敷では、大勢の人の手で花びらを洗って干し、せんべいのように丸く平たい紅餅にした。

地元の和紙などに大切に包まれた紅餅は、西へ長い旅に出た。上方では、紅花は華やかな西陣織の色や化粧用の紅になった。口紅をつけることを「紅をさす」と言うが、この「紅」は紅花に由来する。

県によれば、紅花は伝統的な神事の装束にも使われた。「最上紅花」と呼ばれたこの地の紅花は、朱から真紅まで多様な色を出せる染料だった。その値段は「米の百倍、金の十倍」と言われた。

元禄2年(1689年)、山寺へ向かう途中で紅花畑を目にした松尾芭蕉は、紅花の句を詠んでいる。

最上川を下る

この交易を可能にしたのは最上川だったが、たやすい道ではなかった。山形県によれば、最上川は全長229kmで、山形県内だけを流れる。流れの途中で5つの盆地と5つの狭い峡谷を交互に通り、日本三大急流の一つに数えられている。

県によれば、峡谷は舟運の時代の難所だった。そこは山形の4つの地方の境にもあたり、それぞれの地方に独自の方言や文化が育った。

最上川は平安時代から物や人を運んできた。古今和歌集にも、最上川を上り下りする稲舟が詠まれている。

その利用が大きく広がったのは、航路を開く工事の後である。国土交通省によれば、近世初期の山形城主・最上義光は、最上川の三難所とされる碁点・三ヶ瀬・隼の瀬を開削した。

国土交通省はさらに、元禄年間に米沢藩の西村久左衛門が、村山と置賜の間の五百川峡谷を開削したと記している。上流から河口まで航路が開かれると、舟運はたちまち主要な輸送路になった。

山形県の案内資料は、上流での変化を伝えている。17世紀後半、舟の通行を妨げていた黒滝の岩が開削された。元禄年間には、小鵜飼船で長井まで行ける舟着場が完成し、長井は「山の港町」と呼ばれる商人の町に成長した。

紅花は、いつも全行程を舟で運ばれたわけではない。県の日本遺産のページによれば、紅餅は川の難所を避けて陸路で運ばれ、大石田河岸で舟に積まれた。県の別のページは、紅餅が最上川の舟運で上流の米沢から酒田に集められたと説明している。

河口の酒田では、荷は西回り航路の北前船に積みかえられ、上方へ運ばれた。大石田河岸は室町時代に始まったと言われ、寛政4年(1792年)には幕府の舟役所が置かれた。国土交通省によれば、明治時代まで最上川舟運の中心として栄えた。

上方から戻ってきたもの

舟は空のまま戻ったわけではない。国土交通省によれば、19世紀初めまで、上流からは米・紅花・青苧などの特産物が京へ積み出された。木材は筏に組んで酒田まで下し、帰りの舟は上方の塩や木綿を運んだ。

北前船によって仏像や梵鐘、石造物ももたらされた。県内の祭りには、京都の祇園祭の影響が見られるという。

近江(今の滋賀県)の商人も、この地にやって来た。県によれば、比叡山と古くから関係のある山寺の存在が、比叡山と縁の深い近江商人を引きつけた。

山形の領主・最上義光も、上方との取引を盛んにしようと近江商人を積極的に招いた。近江商人は山形の町の中心部に店を構え、地元の商人とともに、紅花交易を通してこの地に莫大な富をもたらした。

江戸時代の半ばからは、羽州街道を使った紅花交易も盛んになり、江戸の文化も伝わった。

豪農や豪商は、白壁の蔵が並ぶ大きな屋敷を構えた。県によれば、蔵がすべて白壁であることに上方文化の影響が見てとれる。

商人が上方へ出張した際に買い求めた雛人形や紅花染めの衣装は、それぞれの家に伝えられてきた。ひなまつりの時期には、今も家や蔵を開放して雛人形が公開されている。

食べものにも交易の記憶が残る。秋に川原で食べる芋煮は、紅花を上方へ運んだ船頭が、地元の里芋と帰り荷の棒鱈を川原で煮て食べたのが始まりと言われている。

国土交通省によれば、明治時代に奥羽本線や陸羽西線などの鉄道が開通すると、最上川の舟運はその歴史的な役目を終えた。今の最上川では、観光の舟下りが盛んに行われている。

紅花の栽培は続いた。2019年、山形の「最上紅花」の生産と染料用加工の仕組みは、農林水産大臣によって日本農業遺産に認定された。また、平成30年度(2018年度)には「山寺が支えた紅花文化」が日本遺産に認定されている。

紅花と最上川をたどる

河北町紅花資料館は、江戸時代に名主を務め、紅花商人でもあった旧堀米家の屋敷を使った資料館である。町が1982年に屋敷の寄贈を受け、1984年に開館した。

紅餅を作る工程とその道具を常設で展示し、紅花染めの衣装や雛人形を企画展ごとに公開している。敷地内の紅花畑は、6月末から7月上旬に見ごろを迎える。

県によれば、最上川沿いの長井には、舟運で栄えた商家や蔵が今も大切に保存されている。国土交通省は、大石田の町並みにも蔵づくりの店など河岸の時代の面影が残っていると記している。

開館時間や見ごろは変わることがあるので、出かける前に公式サイトで確かめてほしい。

出典

  1. 歴史と伝統がつなぐ山形の『最上紅花』Yamagata Prefecture
  2. 山寺が支えた紅花文化Yamagata Prefecture
  3. 最上川Yamagata Prefecture
  4. やまがた水の物語Yamagata Prefecture Okitama Office; edited by 西置賜地域課題解決研究会
  5. 日本の川 東北 最上川 「文化を運ぶ道」最上川の歴史Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism
  6. 河北町紅花資料館Kahoku Town Tourism and Products Association