栃木県の北西部にある日光には、徳川家康を祀る霊廟、東照宮がある。しかし東照宮が建てられたのは、それより何百年も前から聖地とされてきた場所だった。日光市は、8世紀末の勝道上人による日光開山以後、日光は山岳信仰の聖地として崇拝されてきたと説明している。
この記事では、男体山を中心とする山の信仰、そこから育った大きな宗教の場、17世紀の徳川家の社殿と霊廟、そして今その伝統を受け継ぐ神社と寺院までを、順にたどる。
聖なる山と開山の伝え
日光市のパンフレットによれば、日本では昔から山そのものを神として崇めてきた。やがて大陸から仏教が伝わると、神と仏は一体のものとして敬われるようになり、山頂に至ることが修行と考えられるようになった。日光連山の中心である男体山は、県内の広い範囲から望むことができる。
解釈が分かれる
日光の始まりは、僧の勝道上人(735〜817)とともに語られる。輪王寺と日光市によれば、766年、勝道上人は大谷川を渡って四本龍寺を建てた。これが今の輪王寺の前身である。市の伝えでは、上人は男体山の登頂に2度失敗し、782年、3度目の挑戦で山頂に至って小さな祠を築いた。
解釈が分かれる
これらの年は、寺と神社に伝わる伝承であり、市の年表もそれを載せている。この記事では伝承として扱う。観光庁の解説は、この山々は古くから神聖とされ、8世紀後半に山頂に小さな祠が建てられたと書いている。
開山には伝説もある。市のパンフレットによれば、勝道上人が流れの速い大谷川を渡れずにいると神が現れ、2匹の蛇を絡み合わせて橋とし、上人を渡したという。市が二荒山神社のシンボルと呼ぶ朱塗りの神橋は、この伝説と結び付いており、国の重要文化財に指定されている。
三山・三仏・三社
男体山の山頂の小さな祠は、今の二荒山神社の奥宮である。のちに山のふもとに中宮祠が、人びとが暮らす場所の近くに本社が設けられた。二荒山神社は三柱の神を祀り、これらは男体山・女峰山・太郎山の三山の神とされている。
信仰の場がどう大きくなったかは、輪王寺が説明している。鎌倉時代には将軍家が日光を深く信仰し、日光から鎌倉将軍の護持僧として仕える僧が出た。このころ、寺によれば、三山・三仏・三社を同じものとみる考えが整い、山岳修行の修験道が盛んになった。
寺によれば、室町時代には所領18万石、500におよぶ僧坊が並んでいた。また、明治以前の日光は三つの別々の場所ではなく、「日光山」としてひとつに包括された関東の一大霊場だったという。
その繁栄は途切れることもあった。市のパンフレットによれば、戦国時代に豊臣秀吉に敵対した日光山は所領の大部分を没収され、衰えた。天下を統一した徳川家康は、側近の僧、天海を日光に送り、再興を命じた。
東照宮と徳川将軍家
家康は1616年に亡くなった。遺言により、翌年、二代将軍秀忠が日光に「東照社」を建て、家康の遺骸は日光に移された。日光市は、この霊廟の創建を1617年としている。
最初の社殿は簡素なものだった。家康の二十回忌にあたって、三代将軍家光が、はるかに大規模な社殿に建て替えた。
市によれば、この「寛永の大造替」は1年5か月をかけ、延べ454万人を投入して、1636年に完了した。今残っている建物の多くは、このときに造られたものである。
1645年、東照社は宮号を受け、東照宮と改められた。日光市は、東照宮の建築によって、本殿と拝殿を石の間でつなぐ神社建築の様式「権現造」が完成したといってもよいとしている。彫刻や彩色にも当時の最高水準の技術が用いられたという。
市は、1636年に造られた陽明門を「日光で最も有名な建築」と呼ぶ。屋根の葺き替えや塗り替えはあったが、市によれば彫刻や主要な化粧部材は創建のままである。東照宮では8棟が国宝、34棟が重要文化財に指定されている。
家光は1651年に亡くなり、やはり遺言により日光に葬られた。その霊廟である大猷院は1653年に完成し、今は輪王寺に属している。寺によれば、境内には国宝・重要文化財に指定された22件の建物が建ち、315基の灯籠が並ぶ。
日光は、将軍家の墓所というだけではなかった。市のパンフレットによれば、東照宮には幕府から神領が寄進され、代々の将軍が社参し、朝廷からは例幣使が遣わされ、朝鮮通信使も参詣した。市は、日光は江戸時代の政治体制を支える重要な歴史的役割を担った場所といえる、としている。
明治の神仏分離と修理
明治政府は、神道と仏教を分ける神仏分離の政策を進めた。日光市によれば、日光では1871年に神仏分離令が施行されたが、社寺の関係者らが政府に強く働きかけたことで、影響は最小限にとどまった。そのひとつが、輪王寺の本堂・三仏堂を二荒山神社の隣から今の場所へ移したことで、移築は1881年に行われた。
輪王寺によれば、明治のころから日光の参詣所は、輪王寺・東照宮・二荒山神社の三か所とされるようになった。日光市は三つを合わせて「二社一寺」と呼んでいる。
幕府がなくなると、建物を保ってきた定期的な修理も途絶え、市によれば社寺の建物や環境は荒れていった。1879年、当時の町民や旧幕府の関係者らが「保晃会」をつくり、修理が再開された。
のちに社寺の修理を担う事務所が組織され、これが今の公益財団法人日光社寺文化財保存会の前身となった。市によれば、今は計画に基づいて、常にどこかの建物の修理が行われている。
世界遺産「日光の社寺」
1999年12月、モロッコのマラケシュで開かれた世界遺産委員会で、「日光の社寺」が世界遺産一覧表に記載された。対象は、二社一寺の国宝9棟・重要文化財94棟の計103棟の建造物と、それを取り巻く「遺跡(文化的景観)」である。
登録された範囲は50.8ヘクタールで、周りに373.2ヘクタールの緩衝地帯が設けられた。日光市によれば、弥生祭や千人武者行列、強飯式など、社寺に伝わる祭礼行事も、世界遺産に深く関わるものとして評価されている。
観光庁の解説は、委員会が評価した点を、自然の景観に溶け込んだ建築と芸術の組み合わせ、日光の建物がその後の日本の建築に与えた影響、そして自然と調和した神道の表現としてまとめている。
日光の社寺を訪ねる
東照宮は、公式サイトで拝観時間・料金と、英語などに対応した境内の音声ガイドを案内している(2026年時点)。輪王寺も、三仏堂・大猷院・宝物殿の拝観案内を公式サイトに載せている。二荒山神社の本社も、同じ日光山内にある。
東照宮と輪王寺では今も祭典や行事が行われ、その間は拝観できない場所や時間がある。出かける前に、それぞれの公式サイトで時間と休みを確かめてほしい。
出典
- 日光市の概要Nikko City
- 旧日光市歴史年表(古代~鎌倉)Nikko City
- 日光東照宮Nikko City
- 未来へ届けたい日光(改訂版)Nikko City (日光市)
- 日光の社寺(文化遺産オンライン 世界遺産)Agency for Cultural Affairs (文化庁, 文化遺産オンライン)
- Nikko Futarasan Shrine (Japan Tourism Agency multilingual commentary database)Japan Tourism Agency (観光庁, 地域観光資源の多言語解説文データベース)
- 世界遺産:日光の社寺(観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース)Japan Tourism Agency (観光庁)
- 輪王寺について(日光山輪王寺 オフィシャルサイト)Nikkozan Rinnoji Temple (日光山輪王寺)
- 拝観のご案内(日光山輪王寺 オフィシャルサイト)Nikkozan Rinnoji Temple (日光山輪王寺)
- 拝観時間・料金(日光東照宮ホームページ)Nikko Toshogu (日光東照宮)
