北日本の山では、「マタギ」という言葉が特別な狩人を指してきた。秋田県は、マタギを東北地方の山岳地帯を猟場とする伝統的な狩猟技術をもつ人々、またはその狩猟行為のことだと説明する。代々伝えられてきた巻物を携え、古くから伝わる狩りの作法を守りながら狩猟を行ったことが特徴だという。
この記事では、北秋田市の阿仁地域のマタギを取り上げる。県の調査と国の指定では、根子(ねっこ)、打当(うっとう)、比立内(ひたちない)の集落に残る用具が記録されてきた。
その歩みは、昔から変わらない暮らしの物語ではない。狩猟に農業や薬の行商、のちには観光を組み合わせてきた山の集落の物語であり、文筆家や研究者、映画の作り手たちが記録し、描いてきた歴史でもある。
マタギとはだれか
北秋田市は、研究者の田口洋美の言葉を引いている。福島・新潟・長野などでは山の狩人を一般にヤマビトと呼ぶことが多く、マタギといえば秋田の狩人を指したという。市によれば、秋田のマタギは集団で熊などの大型獣を獲り、独特の儀式や信仰にもとづいた規律正しい狩りを行った。
マタギの集落は阿仁だけにあったわけではない。市は、白神山地の周辺、仙北地方、鳥海山の周辺を挙げ、太平山の周辺にも散在していたと伝えられるとする。
そのなかで阿仁は、専業の狩猟民が多い所として昔から知られてきた。ほかの地域へ出かけて狩りをしたり、獲物から作った薬を遠くまで売りに行ったりしたことも、阿仁マタギの特徴だという。
文化庁は、阿仁マタギを集団猟を行うことで知られる人々と説明する。熊やカモシカなどの大型獣、野兎やムササビなどの小型獣を獲って生計を立ててきた。住む地区の周りで猟をする「里マタギ」のほか、福島や新潟など遠くまで出かける「旅マタギ」があり、旅マタギは行く先々で熊の胆(い)などの薬を売り歩いた。
解釈が分かれる
「マタギ」という言葉の由来は、はっきりしていない。秋田県が2008年にまとめた調査報告書は、「山立(やまだち)」がなまったとする説、「又鬼」の字に由来する説、盤司盤三郎(万二万三郎)の伝説、さらにはサンスクリット語説まで、いくつもの説を紹介している。江戸時代の菅江真澄は、シナノキの皮を剥ぐ「級剥(マダハ)ぎ」が「マタギ」になったのではないかと考えたが、それが真澄独自の考えか当時の言い伝えかは定かでないと報告書は述べる。報告書の主任調査研究員は、マタギの用具の中にマダ(シナノキ)の製品がほとんど見当たらないことから、この説には根拠が薄いと結論づけている。
江戸時代の記録
県の報告書は、書かれた記録の整理を江戸時代から始めている。50年近く東北地方を旅した菅江真澄は、天明5年(1785)の著作で「またぎ」とは狩人のことだと書き、のちには山で使われる特別な言葉に強い関心を示した。真澄は打当や比立内に立ち寄り、根子のマタギについても書き残している。
越後の鈴木牧之も、文政11年(1828)に秋山郷を旅した際、秋田の城下から三里離れた山里の出身という猟師に会っている。ただし牧之は「マタギ」とは書かず、「猟師」とだけ記した。報告書は、「マタギ」という言葉はその土地でのみ使われていた言葉だとまとめている。
根子に残る文書は、秋田藩とのつながりを伝えている。報告書によれば、根子のあるマタギの組は秋田藩へ熊を上納し、熊の胆を上納することで鉄砲を下賜され、その鉄砲は10月から4月までに限って預けられていた。秋田県も、江戸時代後期に藩の御製薬所へ熊の胆を納めたことを示す文書があると記している。
狩りの掟と山の神
報告書によれば、阿仁でマタギとは、体力・気力にすぐれ、高い峰や深い谷を越えて狩猟生活をする仲間を指した。山の神を信仰し、万二万三郎を始祖とし、規範を重んじてきた。組はシカリ(頭領)を中心に動いた。
根子では親戚や気の合う者が組をつくり、シカリには実力のある者がなった。父親の跡を息子が継ぐこともあったが、必ずしも世襲ではなかったという。
狩りに出る前には、儀礼で身を整えた。根子の人々の話では、マタギに出る前の1週間は山神様に夜通しお参りをして身を清め、田んぼに立てた的で鉄砲の試し撃ちをしてから出かけた。12月12日は山の神様の日で、山仕事をする人はこの日は山に入ってはいけないとされた。
森吉山から持ち帰ったモロビ(アオモリトドマツ)の葉をいぶし、その煙で身を清めることもあった。出産をめぐる決まりもあり、家に子どもが生まれるとしばらくは山に入るのを避けた。こうした話を聞き取った研究者は、山に入れば常に死と隣り合わせであることへの、張りつめた緊張感を書きとめている。
分け方にも決まりがあった。「マタギ勘定」という言葉が残るように、獲物は猟に加わった全員で平等に分けるのが決まりだった。熊を獲ると、熊の胆や皮などを仲間内のセリで分け、セリで得たお金や熊の肉を参加者に平等に分配したという。
農業と薬、変わっていく集落
狩猟は、マタギの暮らしの一部にすぎなかった。報告書が引く昭和7年(1932)の根子の記録は、主な仕事はあくまで農業で、猟と売薬は副業だとしている。昭和30年(1955)ごろの暮らしを聞き取ると、田植えや稲刈り、集落総出の仕事など、一年の暮らしぶりは山間の農村と変わらなかった。
狩りは季節と市場に合わせて行われた。根子の人々によれば、夏は熊の胆に胆汁がたまらず安くしか売れないため、夏から秋にかけて猟に出ることは少なかった。
熊撃ちは10月末ごろから始まった。男たちが猟や行商に出ている間、女性たちの仕事は多く、昭和7年の記録では、夏は山菜などを採って売り、秋は栗や茸、果物を売ったとされる。
薬は大切な収入源になった。報告書によれば、阿仁マタギのなかで薬を製造していたのは根子だけで、全国への売薬活動が始まったのは明治時代以降と考えられている。
昭和7年の根子には76人の行商人がいた。報告書の筆者は、狩りや行商の先で知った外の世界を柔軟に取り入れてきたことも、根子という集落の気質だとみている。
マタギの習俗がまもなく消えてしまうという声は、昭和10年代ごろから聞かれていた。1943年にはある研究者が、獲物が急に減ってマタギを主とした生活は難しくなり、農業や林業に頼るようになったと書いている。
報告書は、生業としてのマタギは衰えつつある一方、観光の面からマタギやマタギ集落が見直されてきたと述べる。ほかの市町村と同じく、過疎化の問題も抱えている。
報告書がまとめられた2008年ごろ、巻狩りには70歳代の熟練者と50〜60歳代のマタギが参加していたが、若い後継者は3つの地区それぞれで4〜5人ほどになっていた。
マタギは広く知られるようにもなった。報告書によれば、阿仁マタギを題材にした映画「マタギ」(1982年)と「イタズ」(1987年)が公開され、秋田県出身の漫画家・矢口高雄も漫画『マタギ』を発表した。報告書は、脚色された部分があることは否めないとしつつ、人々の関心を引く大きなきっかけになったとみている。
用具を守る
1958年、当時秋田県の文化財保護審議委員だった奈良環之助が、阿仁地方でマタギ用具を調査した。北秋田市は、いまマタギのならわしを記録し用具を保存しなければ跡形もなくなるだろう、という奈良の言葉を紹介している。
1959年、県は126点を県指定有形民俗文化財に指定した。2005〜2007年度に根子・打当・比立内で改めて調査が行われ、薬の製造や販売に関する道具、山の神への信仰を示すものなどが追加された。
2013年、国は293点を重要有形民俗文化財「阿仁マタギの狩猟用具」に指定した。北秋田市によれば、熊など大型獣の狩猟に使われた武器や衣装、携行品など119点、ウサギなど中・小型獣の狩猟用具97点、鳥類の狩猟用具33点、山小屋の生活用具20点、行商用具24点からなる。このうち約190点は地域の人々など個人が所有している。
北秋田市は、マタギを見る目の変化にも触れている。これまでは独特な狩猟方法や山詞などに目が向けられがちだったが、今はマタギを生み育んできた環境全体をとらえる研究が進みつつあるという。マタギの狩猟方法や暮らしから、自然との共生を学ぶ取り組みも進められているとしている。
阿仁を訪ねる
北秋田市は2013年、国の指定が答申された用具の一部が、打当のマタギ資料館や根子児童館などに展示されていると紹介していた。秋田県の追加指定の参考資料は、マタギ資料館を阿仁打当の北秋田市ふるさとセンター内としていた。
ふるさとセンターは1982年に開設され、マタギ資料を展示する資料館が設けられた。展示や開館日は変わることがあるので、出かける前に北秋田市の最新の公式情報で確かめてほしい。
出典
- 参考資料 阿仁マタギ用具(追加指定)Akita Prefecture
- 阿仁マタギ用具 調査報告書(資料索引)Akita Prefecture
- 第2章 阿仁マタギ習俗の概要(秋田県指定有形民俗文化財 阿仁マタギ用具 文化財収録作成調査報告書)Akita Prefectural Board of Education (秋田県教育委員会)
- 第3章 「もの」から見た阿仁マタギ Ⅰ序・Ⅱ生活基盤(秋田県指定有形民俗文化財 阿仁マタギ用具 文化財収録作成調査報告書)Akita Prefectural Board of Education (秋田県教育委員会)
- 阿仁マタギの狩猟用具(文化遺産オンライン)Agency for Cultural Affairs (文化庁, 文化遺産オンライン / 国指定文化財等データベース)
- 阿仁マタギの狩猟用具(市で初となる国の重要有形民俗文化財に)Kitaakita City (北秋田市)
- 重要有形民俗文化財 阿仁マタギの狩猟用具 国指定までの経緯Kitaakita City (北秋田市)
