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The Opening of Yokohama: From Perry's Black Ships to an International Port

横浜開港―ペリー来航から国際港へ

1853年に浦賀沖に現れたペリーの4隻の軍艦から、横浜の浜辺で結ばれた条約、そして1859年の開港まで。小さな漁村が日本と世界を結ぶ港になるまでの歩み。

約6分 · 出典 7件

手彩色の石版画。浜辺で、アメリカの水兵や海兵隊が列をなし、制服の兵の長い列のあいだを左手の幟を掲げた大きな木造の建物へ向かって進む。手前には笠をかぶった役人たちが立ち、右手には大きな木と小さな鳥居、奥の湾には帆船の軍艦と多くの小舟が浮かぶ
後世の作品ヴィルヘルム・ハイネの絵をもとに、1855年にアメリカで出版された版画(石版画)。後から版画として作られたもので、その場で描かれた記録ではない。題には、1854年3月8日にペリーと士官・兵が横浜で日本側の全権と会うために上陸した場面とある。Eliphalet M. Brown Jr., after Peter Bernard William Heine, 1855 · Wikimedia Commons (National Portrait Gallery, Smithsonian Institution) · Creative Commons CC0 1.0 Universal Public Domain Dedication · 出典 · 縮小して掲載

1853年の夏、4隻のアメリカの軍艦が浦賀沖に姿を現した。その6年後、港の施設もほとんどない小さな漁村だった横浜が、外国との貿易の港として開かれた。

この記事では、その二つの出来事のあいだをたどる。ペリーの2度の来航、横浜の浜辺で結ばれた条約、そして開港である。日付は旧暦(和暦)で示し、出典が示す西暦を添えた。

浦賀沖の4隻の軍艦

横浜市教育委員会が発行した中学生向けの『横浜の歴史』によれば、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが率いる4隻の軍艦が浦賀沖に現れた。それまでにも外国船は姿を見せていたが、艦隊を組み、砲門を開き、いつでも戦える状態で現れたことはなかった。

同じ本は、アメリカが来た理由も説明している。工業が発達したアメリカはアジアに市場を求め、太平洋を直接横断する航路を考えた。

当時の船は途中で石炭や水を補給する必要があり、その中継地として日本が最良の場所だった。横浜市中央図書館によれば、ペリーは捕鯨船の避難・補給港や遭難した船員の救助についても交渉するために派遣された。

横浜市の「横浜港の歴史」は、ペリーが日本の鎖国政策を変えさせ、港を開くように強く要求したと記している。市の説明では、それまでの日本は、オランダなどのごく一部の国のほかは、長い間外国との交流をしてこなかった。

江戸湾での圧力

幕府は、ペリーの来航を長崎のオランダ商館長から知らされていたが、政策を変えなかった。浦賀沖に来たペリーにも、交渉地である長崎へ回るよう求めた。

『横浜の歴史』によれば、ペリーは強い態度を示し、交渉中も江戸湾の測量を行い、金沢の小柴沖まで船を進めた。交渉が進まなければ、いつでも艦隊を江戸へ向かわせる構えを見せたのである。

幕府は諸大名に江戸湾周辺の警備を命じた。本牧周辺は熊本藩、神奈川は平戸藩、横浜村は小倉・松代の両藩が守りを固めた。『横浜の歴史』は、これほど大規模に諸大名を動員したことは、それまでなかったと記す。

ペリーの強い態度に押された幕府は、久里浜で国書を受け取ることを認めた。1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、急いで設けられた応接所で、アメリカ大統領フィルモアの国書が浦賀奉行に渡された。国書は、友好、貿易、石炭・食料の補給、遭難者の保護を求めるものだった。

幕府は、正式な交渉地は長崎であるとして、国書への回答はできないという態度をとった。ペリーは、国書を受け取らせたことで最初の目的を果たしたと判断し、翌年に回答を受け取りに来ると伝えて日本を離れた。艦隊の滞在は、わずか8日間だった。

『横浜の歴史』によれば、この来航は国内に大きな波紋を広げた。諸大名は開国と攘夷とに分かれた。

戦争が起こるといううわさから、物資の買いだめや米価の値上がりが起きた。浦賀と東海道を結ぶ金沢道沿いの村々は、公用の荷物に警備の大名の荷物まで加わって運ぶことになり、負担はそれまでの2倍以上になった。

横浜の浜辺で結ばれた条約

ペリーは嘉永7年正月16日(横浜市中央図書館によれば1854年2月13日)、今度は7隻の艦隊を率いて再び来航し、金沢の小柴沖に錨を下ろした。翌日から会見場所をめぐる話し合いが始まった。幕府は浦賀や鎌倉などを提案したが、アメリカ側は江戸に近い場所を求めた。

『横浜の歴史』によれば、ペリーは艦隊をさらに神奈川沖や羽田沖まで進め、江戸の近くから黒船が見えるほどに近づけた。驚いた幕府は、神奈川宿の対岸にあたる横浜村を急いで提案した。図書館の説明では、アメリカ側の強硬な姿勢に押され、正月28日(2月25日)に横浜に決まった。

解釈が分かれる

応接所は、浦賀に設けた建物の資材を運んで建てられた。図書館によれば、第1回の会談は2月10日(3月8日)に開かれ、この日ペリーは初めて横浜村に上陸し、幕府側の正使・林大学頭(復斎)らとの交渉に入った。なお、『横浜の歴史』は第1回の会見を1854年3月4日(2月6日)としており、日付が異なる。

交渉の合間には、友好的な催しも行われた。アメリカ側は電信機や蒸気車の模型などを贈った。

『横浜の歴史』によれば、模型の蒸気車は6歳ほどの子どもを乗せて走れるものだった。日本側は力士の力自慢を披露し、絹織物や陶器、塗り物を贈った。

日米和親条約(神奈川条約)は、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に調印された。12か条からなるこの条約で、下田と函館の開港が決まった。

『横浜の歴史』によれば、幕府は石炭・薪・水・食料の補給、避難港の開港、遭難者の救助と人道的な扱いは認めたが、通商は認めなかった。また、アメリカが総領事を置くことも認めた。

横浜市中央図書館は、その結果を次のように記している。幕府が長い間とってきた鎖国政策はついに破綻し、日本が開国に向かうことが決まった、と。横浜市によれば、条約が結ばれたのは、今の横浜開港資料館の中庭のあたりである。

神奈川か、横浜か

続いて1858年(安政5年6月)、日米修好通商条約が結ばれた。横浜市によれば、調印は神奈川沖のポーハタン号の船上で行われた。幕府はさらに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を結んだ。

横浜市によれば、アメリカ総領事ハリスが当初望んだ開港地の中に、神奈川や横浜の名はなかった。幕府が、日米和親条約ゆかりの地で江戸にいちばん近い港として神奈川を提案し、ハリスはこれを受け入れたと考えられる。

ところが、両者が思い描いた場所は違っていた。ハリスが考えていたのは、往来の多い東海道の宿場・神奈川宿だった。

一方、外国人と日本人を遠ざけたい幕府は横浜を強く主張し、一方的に横浜に開港場をつくってしまった。図書館は、条約上の地名は神奈川だが、横浜はその一部とみなされたと補っている。

港の誕生

安政6年6月2日(1859年7月1日)、神奈川・長崎・箱館(函館)が開港し、外国との自由な貿易が許された。横浜には港の施設がほとんどなかったため、今の大さん橋の付け根の付近に2か所の波止場がつくられた。船は波止場に直接着けることができず、沖に泊まり、小さな船が陸との間で荷物や人を運んだ。

市は、この時代の主な輸出品として生糸と茶を、主な輸入品として綿織物を挙げている。今の開港記念会館の近くに運上所(税関)が置かれ、これを中心に横浜の町が生まれていった。図書館によれば、ペリーは開港の前年に63歳で亡くなっている。

港はその後も大きくなっていった。横浜市の年表は、1864年の東波止場の完成、1872年の新橋―横浜間の鉄道開業、1889年の横浜市の誕生、1896年の横浜港の築港の第1期工事の完成を記している。神奈川県は、横浜が日本と外国を結ぶ窓口となり、西洋文明がいち早く流れ込む場所になったと記す。

県はまた、鎖国体制を守り続けた幕府も、軍事的圧力を背景に開国を迫ったペリー率いるアメリカ艦隊に屈し、和親条約を結んだと記している。

横浜と久里浜を訪ねる

横須賀市の久里浜にあるペリー公園は、ペリーの上陸を記念してつくられた公園である。園内の記念碑は1901年に米友協会が建てたもので、碑文は伊藤博文による。2026年時点で、園内のペリー記念館では、ペリー来航に関する歴史資料や模型が展示され、当時の絵巻物や瓦版から人々の驚きや動揺を知ることができる。

横浜の開港記念会館は、開港50周年を記念して、市民の寄付などにより1917年(大正6年)に建てられた。横浜市(2024年)によれば、廊下、階段、ステンドグラス、2階の資料コーナーなどを見学できる。開館日や時間は、横須賀市・横浜市の公式サイトで確かめてから訪ねてほしい。

出典

  1. 横浜港の開港City of Yokohama
  2. History of the Port of YokohamaCity of Yokohama
  3. 神奈川県の歴史Kanagawa Prefecture
  4. 鎖国から開国への日々Yokohama City Central Library
  5. 『横浜の歴史』(平成15年度版・中学生用)「開国」関連部分(横浜市中央図書館「横浜の歴史」ページに掲載)Yokohama City Board of Education (published via Yokohama City Central Library)
  6. よくある質問 歴史・文化について(横浜市開港記念会館)Naka Ward, City of Yokohama
  7. ペリー公園/ペリー記念館Yokosuka City