慶長5年9月15日(1600年、旧暦)、美濃国の関ヶ原(今の岐阜県)で二つの大軍がぶつかった。一方を率いたのは徳川家康、もう一方は石田三成である。この戦いは「天下分け目」の合戦として知られる。
岐阜関ケ原古戦場記念館の館長によれば、この戦いを経て、天下は豊臣の世から徳川の世へ移っていった。この記事では、戦いに至る道のり、公的機関と記念館が伝える合戦当日の流れ、そして古戦場が今どのように守られ、伝えられているかをたどる。
関ヶ原への道
三重県埋蔵文化財センターの講演資料によれば、豊臣秀吉は慶長3年8月18日(1598年)に亡くなった。翌年には、五大老の一人の前田利家も世を去った。
慶長5年(1600年)6月、家康は会津の上杉景勝を討つために出陣した。7月には、毛利輝元・宇喜多秀家・長束正家・増田長盛・前田玄以らが家康を弾劾する書状を出し、兵を集めた。これが西軍となる。
家康は7月21日に江戸を発った。西軍は伏見城を攻め、伏見城は8月1日に落ちた。同じ資料は、本戦の前に伊勢にも戦いが広がり、津城などが攻められたことを示している。
記念館の館長は、両軍を「東軍」「西軍」と呼びながらも、合戦の当時はまだそうした言い方はしていなかったと述べている。
岐阜県の史跡の解説は、石田三成の率いる西軍を約8万5千、徳川家康の率いる東軍を約7万5千としている。記念館の館長は、両軍合わせて15万を超える大軍と書いている。
合戦の一日
記念館によれば、家康は9月14日に今の大垣市にある岡山に着陣し、15日の午前6時ごろ、今の関ケ原町の東の端にあたる桃配山に陣を敷いた。
記念館の説明では、西軍は笹尾山に石田三成、松尾山に小早川秀秋を置く「鶴翼の陣」を、東軍は関ヶ原の盆地の中央で福島正則を先陣とする「魚鱗の陣」を組んだ。
笹尾山の三成の陣からは関ヶ原一帯が見渡せ、北国街道も押さえることができた。岡山には黒田長政と竹中重門が約5,000の兵を率いて陣を置き、戦いが始まると攻撃の合図の烽火(のろし)を上げた。
記念館によれば、井伊直政は徳川家が先陣を切ることが大切だと考え、松平忠吉とともに福島隊より先に進んで宇喜多隊に発砲した。岐阜県のページは、午前8時ごろ井伊直政が島津隊に突入したことで戦いが始まったとされる、と書いている。
記念館は、西軍が思わぬ善戦をしたとしている。家康はやがて、本陣を最前線に近い陣場野へ移した。
標高293メートルの松尾山に陣を置いた小早川秀秋は、主な戦場を一望できる場所にいた。記念館によれば、秀秋はかねてから内応していた東軍に寝返ることを決め、西軍は一気に崩れた。
松尾山のふもとに陣を置いた脇坂安治ら4隊も寝返った。秀秋の動きを警戒して松尾山の正面に陣を置いていた大谷吉継の隊は、三方から攻められて壊滅した。記念館によれば、病のため輿に乗って指揮していた吉継は、自ら命を絶った。
岐阜県によれば、午後2時ごろ、今「決戦地」とされる場所の近くで石田隊が敗れ、戦いの決着がついたと伝わる。記念館は、勝敗はわずか半日ほどで決したとしている。
三成は伊吹山の方へ逃れた。のちに三成の探索を命じられた田中吉政が、伊吹山中の洞窟に潜んでいた三成を捕らえた。
約1,500の兵とともに陣を構えた島津義弘は、午前中は守りに徹し、三成からの援軍の求めも断った。西軍が総崩れになると、東軍の中央を突破して薩摩へ帰った。
戦いのあと
記念館によれば、戦いの翌日、家康はこの地の領主竹中重門に、戦いで壊された神社の修復と、戦場に残された戦死者の処理を命じた。重門は遺体を葬り、東西2か所に首塚を築いた。
岐阜県は、この東首塚と西首塚を、戦死者の首を埋めた場所と説明している。どちらも国の史跡に含まれている。記念館によれば、合戦後には家康の最後の陣地で首実検が行われた。
静岡市によれば、関ヶ原の戦いに勝った家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。1605年には、将軍職を子の秀忠に譲っている。
伝え方が分かれる点
解釈が分かれる
合戦当日のいくつかの点は、記念館のページと岐阜県のページで書き方が違う。岐阜県は、家康が午前10時ごろまで最初の陣地で指揮をとり、東軍がやや不利とみて前に出たとする。記念館は、午前11時ごろ、戦況がつかめないために本陣を移したとしている。
解釈が分かれる
戦いの始まりについても、宇喜多隊への発砲とするか、島津隊への突入とするかで、両者の説明は異なる。
解釈が分かれる
小早川秀秋の決断も、一通りには語られていない。記念館は、秀秋がかねてから東軍に内応していたと書く一方で、三成と家康の間で最後まで悩んだ若い武将としても描いている。家康が松尾山の秀秋を鉄砲で威嚇したという話は、記念館も「一説には」として紹介するにとどめている。
研究は今も続いている。記念館の関ケ原研究会が2026年に出した寄稿集には、本陣の布陣地をめぐる「定説」がどのように作られたかを追う論考が収められている。
関ヶ原の古戦場を訪ねる
古戦場は昭和6年(1931年)3月30日に国の史跡に指定された。岐阜県によれば、指定地は、家康の最初と最後の陣地、三成の陣地、岡山烽火場、大谷吉継(吉隆)の墓、開戦地と決戦地、東西の首塚など9か所からなる。
岐阜関ケ原古戦場記念館は、家康の最後の陣地の跡に建っている。2025年6月11日には、博物館法にもとづく博物館として登録された。1階では、床面のスクリーンとシアターで合戦の流れを紹介している。
2階の展示室は、合戦の発端から終わりまでを実物の資料を交えて紹介し、江戸時代以降に関ヶ原の戦いがどう語られてきたか、史跡がどう守られてきたかも伝えている。5階の展望室からは、今の関ヶ原を見渡せる。
記念館を通じて、レンタサイクルや史跡ガイド、各陣跡を巡るウォーキングコースが用意されている。松尾山の小早川秀秋陣跡へ登るコースは高低差が約190メートルあり、最も体力のいるコースである。
岐阜県と関ケ原町は、ワーテルローとゲティスバーグの古戦場と連携し、「世界三大古戦場」として発信している。記念館によれば、2016年3月19日に開かれたサミットでは、古戦場の歴史的な意義と平和の尊さを伝えていくことが改めて確認された。
開館時間などの最新の情報は、出かける前に記念館の公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 関ケ原の戦いGifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum
- 関ヶ原古戦場 附徳川家康最初陣地ほかGifu Prefecture
- 徳川家康コース|古戦場・史跡巡りGifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum (Gifu Prefecture)
- 石田三成コース|古戦場・史跡巡りGifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum (Gifu Prefecture)
- 小早川秀秋コース|古戦場・史跡巡りGifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum (Gifu Prefecture)
- 関ケ原古戦場・史跡巡りGifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum (Gifu Prefecture)
- フロアマップGifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum (Gifu Prefecture)
- 「関ケ原研究会寄稿集2026」を発行します。Gifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum (Gifu Prefecture)
- 関ヶ原の戦と三重の城郭Mie Prefectural Center for Archaeological Properties (三重県埋蔵文化財センター)
- 徳川家康と駿府(駿府城公園公式サイト)Shizuoka City (Sunpu Castle Park official website)
