江戸時代、讃岐国(今の香川県)は塩・綿・砂糖という三つの白い産物で知られるようになった。香川県立文書館は、この「讃岐三白」を近世の讃岐を代表する特産品と位置づけている。生活に必要な品を自藩の領内でまかなうことを目指す国産奨励の政策のもとで発展し、高松・丸亀の両藩もさまざまな品の国産化に取り組み、特産品として領外へ売り出した。
この記事では、三白のうち二つをたどる。ひとつは、学者で技術者でもあった久米通賢が1820年代に坂出に開いた塩田。もうひとつは、高松藩が1808年に製造に成功した上質な白砂糖、和三盆である。
測量家・科学者、久米通賢
久米通賢(1780〜1841)は久米栄左衛門とも呼ばれ、讃岐国東部の馬宿村(今の東かがわ市)に生まれた。坂出市は、通賢を船のかじを作る職人の子と紹介している。
文化庁によれば、通賢は1798年に大坂へ上り、間重富のもとで天文暦学や測量術を学んだ。1802年に讃岐へ帰ると、藩内の測量と地図づくり、天体観測、土木事業の設計と監理、銃砲などの武器の改良と製造という、多くの分野に事績を残した。
坂出市によれば、通賢は27歳で高松藩の測量方となった。1806年には藩の命で、自ら考案した測量器具を使って藩内を測量し、きわめて精度の高い地図を作った。
坂出塩田をひらく
坂出市によれば、1824年、高松藩の財政は傾き、人々は貧しさに苦しんでいた。通賢は藩の財政を立て直し人々を救おうと、遠浅の坂出の沖に塩田を開くことを藩主松平頼恕に申し出た。1826年には、工事を取りしきる普請奉行に任じられた。
文化庁は、通賢が干拓の設計と監理を自ら行い、普請奉行として事業をやり遂げたと記している。藩から出た約2万両の工費だけでは足りず、通賢は私財も投じた。動員された人数は延べ約194万人にのぼる。
1829年、東大浜・西大浜を含む約132ヘクタールの塩田が完成した。坂出市の別のページは、この工事に3年半の歳月がかかったとしている。
塩田は入浜式であった。坂出市によれば、技術的にも優れていたため「久米式塩田」と呼ばれ、その後の塩田開発の手本となった。
藩主頼恕は通賢の功績をたたえ、新しく開いた土地の中央にあたる菅原神社の境内に石碑を建てた。文は高松藩で名文家として知られた人物、書は市河米庵、彫刻は江戸の職人による。碑は文政12年(1829)12月に海路で坂出へ運ばれ、1957年に坂出市の文化財に指定された。
1828年には、塩田の安全と繁栄を願って、今の宮城県にある鹽竈神社から神を迎えて神社がまつられた。この鹽竈神社は1964年から、坂出塩田のあった一帯を見わたす聖通寺山の中腹にある。境内には、通賢と頼恕をまつる坂出神社がある。
塩田の仕事
塩づくりは体を使う厳しい仕事だった。坂出市塩業資料館の説明によれば、塩田の仕事は朝4時ごろに始まり、休憩をはさみながら日暮れまで続いた。「浜人の一升飯」という言葉が残るほどの、相当な重労働だったようである。
一日は、浜曳き(砂をならす作業)、撒潮(海水をまく作業)、鍬を入れる作業、かん水(濃い塩水)をとり、くみ上げる作業などのくり返しだった。資料館は、過酷な労働ではあったが、塩の好況のころには塩田が活気づき、浜から笑い声や歌がよく聞こえたといわれる、とも伝えている。
資料館によれば、久米通賢の開いた塩田をきっかけに、香川県は全国の塩の3分の1を生産するまでになった。坂出市の塩業史の年表には、1921年に各地で塩田の小作争議が頻発したことが記されている。1937年には、坂出・宇多津・林田などで、合同の機械製塩の導入をめぐる小作争議があった。
資料館によれば、昭和30年代には、労力は10分の1、生産量は2倍という流下式塩田が導入された。しかしこの方式もわずか15年で終わり、イオン交換膜を使う方法に代わった。1972年には全国の塩田がすべてなくなり、広大な塩田はしだいに工業用地や住宅地へと姿を変えていった。
サトウキビから和三盆へ
文化庁によれば、サトウキビの栽培と砂糖づくりは、江戸時代の初めに讃岐でも行われるようになった。高松藩は薩摩から製糖の技法を学び、1808年に上質な白砂糖である和三盆糖の製造に成功した。
砂糖づくりは、砂糖しめ小屋から始まった。小屋の中央には3つの石臼が置かれ、臼に取り付けた腕木を牛が引いて回し、その間にサトウキビをはさんで汁をしぼった。こうした小屋を保存する四国村によれば、建物が円形なのはそのためである。
しぼった汁は釜屋の3つの釜で煮つめられ、白砂糖の前の段階にあたる白下糖になった。四国村の説明では、これをさらに精製して白砂糖が作られ、その工程の中から讃岐特産の和三盆糖も生まれた。温度計も糖度計もない時代、砂糖のできは職人の熟練した技にかかっていた。
観光庁の解説文によれば、和三盆は、精製してろ過し結晶にした糖を、適量の水で練り上げて何度も研ぎ、きめ細かい粒にしたものである。盆の上で三回研ぐことから和三盆と呼ばれるという。砂糖としては高価で、かつてその精製法は秘伝とされていた。
同じ解説文によれば、和三盆は香川県や徳島県など主に四国の東部で作られ、200年以上の歴史をもつ。木型に詰めると、小さなお干菓子になる。
1983年、讃岐とその周辺地域の砂糖づくりの用具937点が、砂糖しめ小屋2棟・釜屋1棟とともに、国の重要有形民俗文化財に指定された。用具は、サトウキビの栽培から白下糖づくり、和三盆糖づくりまでの各工程にわたっている。
訪れられる場所
高松市の屋島のふもとにある野外博物館・四国村ミウゼアムには、円形の砂糖しめ小屋2棟と釜屋が保存されている。しめ小屋はいずれも坂出から移されたもので、四国村によれば、円錐形のしめ小屋で現存するのは全国でもこの2棟だけである。砂糖づくりの用具937点を納めた収蔵庫はふだんは公開されていないが、予約制の見学ツアーが行われている。
四国村には、馬宿から移築された久米通賢の旧宅もある。移築のために解体したとき、母屋の天井裏から大砲の鋳型の原型などが見つかった。
坂出市の坂出市塩業資料館では、古代の土器による製塩から入浜式塩田までの塩づくりを、道具や精巧な模型で見ることができる。鎌田共済会郷土博物館は、2014年に国の重要文化財に指定された久米通賢の関係資料を所蔵している。菅原神社の石碑や聖通寺山の鹽竈神社も訪ねることができる。
東かがわ市の讃州井筒屋敷は、かつての商家の屋敷で、この地域で伝統的に作られてきた和三盆を使ったお菓子づくりなどの体験教室を開いている。開館日や予約の有無は、訪れる前にそれぞれの公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 近世讃岐の国産奨励 企画展示 讃岐三白と藍・和紙・蠟Kagawa Prefectural Archives
- 久米通賢関係資料Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 坂出塩田の父「久米通賢」Sakaide City
- 塩業のあゆみSakaide City
- 讃岐及び周辺地域の砂糖製造用具と砂糖しめ小屋・釜屋Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 坂出市塩業資料館Sakaide City (Cultural Promotion Division)
- 宮崎家砂糖しめ小屋Shikoku Mura Museum (Shikoku Minka Museum Foundation)
- 冨木田家砂糖しめ小屋Shikoku Mura Museum (Shikoku Minka Museum Foundation)
- 六車家釡屋Shikoku Mura Museum (Shikoku Minka Museum Foundation)
- 砂糖製造用具収蔵庫/醤油製造用具収蔵庫Shikoku Mura Museum (Shikoku Minka Museum Foundation)
- 久米通賢旧宅Shikoku Mura Museum (Shikoku Minka Museum Foundation)
- 四国村とはShikoku Mura Museum (Shikoku Minka Museum Foundation)
- 和三盆型抜き体験(観光庁 多言語解説文データベース)Japan Tourism Agency
- 讃州井筒屋敷(観光庁 多言語解説文データベース)Japan Tourism Agency
