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Tsunamis and Memory on the Sanriku Coast, 1896 to 2011

三陸の津波と記憶―1896年から2011年へ

三陸の沿岸はくり返し津波に襲われ、人びとはそのたびに得た教訓を、うまくいかないことも経験しながら、次の世代へ伝えようとしてきた。

約7分 · 出典 14件

2011年に撮影された、宮古市姉吉の大津浪記念碑。秋の林の中に立つ風化した石に、碑文が刻まれている
2011年の宮古市姉吉の大津浪記念碑。「此処より下に家を建てるな」という戒めが刻まれている。T.KISHIMOTO, 2011-10-30 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International · 出典 · 縮小して掲載

内閣府の報告書によれば、東北地方の三陸沿岸は、津波がくり返し襲う地域として知られている。明治以降1960年までに三陸を襲った大津波は3回あり、それ以前も、残された資料から判断すると平均46年に一度は津波が来ていた。

津波のたびに深い悲しみが残り、同時にひとつの問いも残った。何十年も来ないかもしれない危険を、次の世代にどう覚えていてもらうか。この記事では、1896年から2011年までの岩手の沿岸を、この問いを通してたどる。

1896年―小さな揺れと大きな津波

1896年(明治29年)6月15日19時32分、三陸沖(宮古の東約170km)で地震が起きた。気象庁によれば、北海道・東北・関東で観測された揺れは震度3〜1程度と弱かった。地震の規模はM8.2と推定されている。

約30分後、巨大な津波が東北の太平洋沿岸に押し寄せた。最大の遡上高は、岩手県綾里村(現在の大船渡市)の38.2mだった。

気象庁の説明では、この地震では断層の破壊が非常に広い範囲で、約100秒かけてゆっくり進んだ。こうした地震は揺れがそれほど強くなくても、大きな被害をもたらす津波を起こしやすい。このような地震は「津波地震」と呼ばれる。

内閣府の報告書によれば、この日は旧暦の5月5日、端午の節句だった。村々では、前年の日清戦争の勝利を祝い、凱旋した兵士とともに端午の節句を過ごしていた。人びとは緩やかで長い揺れを感じたが、さほど気に留めなかった。

被害は甚大だった。気象庁が内閣府の資料から引く数字では、岩手県の死者は18,158人、負傷者は2,943人である。

気象庁の被害地震の一覧では、全体の死者は21,959人とされる。岩手県では沿岸の戸数の約半数、住民の4分の1が失われた。

行政官や警察官も亡くなり、村の行政や学校、情報を伝える拠点も被災した。そのため、その後の応急対応や復興はいっそう難しくなった。

高台へ移り、そして戻る

1896年の津波の後、高い土地に移って家を建て直した集落もあった。内閣府の報告書は移転の数を43と数えるが、集落ぐるみの集団移転は7つにすぎない。

多くは各家が自分で移ったもので、有志が提案し義援金などを使って宅地を造った集団移転は一部だった。国・県・村が主導する移転は、1933年を待たなければならなかった。

吉浜村の本郷では、村長の新沼武左衛門らが高台への移転を計画した。まず低地にあった道路を山腹に移し、それに沿って家々が移った。報告書によれば、本郷は1933年の津波で被害を受けなかった。

一方で、多くの家はしだいに浜へ戻っていった。報告書が引く研究者は、その理由を次のようにまとめている。漁業で暮らす家にとって海までが遠すぎたこと、高台では飲み水が足りなかったこと、道が不便だったこと。

先祖伝来の土地への思いもあった。津波はそう頻繁には来ないため、約10年たったころから浜へ戻る家が目立ったという。

現在の宮古市にある小さな漁村、姉吉の例は、記憶がどのように失われうるかを示している。1896年、すべての家が流され、生き残ったのは2人だけだった。近くの村などから若い人たちが来て家を継いだ。

だれも津波を経験しておらず、浜に仮の家を建てて住む人が多かった。そして1933年、姉吉は再び全滅した。

石に刻まれたことば

1896年の津波の後、沿岸には記念碑が建てられたが、その多くは警告を伝えていなかった。内閣府の報告書によれば、明治の津波の記念碑124基を調べたところ、101基は津波が来た日付と碑の題のほかに何も記していなかった。20基には犠牲者の名が刻まれていたが、次の世代に警鐘を鳴らす碑はひとつもなかった。

当時の板垣内務大臣は1896年、記念碑には災害の惨状を記すだけでなく、津波の前ぶれなどの知識を書いて子孫に伝えるべきだと提案していた。経験を伝えることを目的とした碑が数多く現れるのは、1933年の津波の後のことである。

その津波は、1933年3月3日の未明に沿岸を襲った。気象庁の一覧では、地震の規模はM8.1、死者・行方不明者は3,064人とされている。

岩手県の「いわて震災津波アーカイブ」は、こうした石碑のことばを集めている。姉吉の碑には「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」と刻まれている。続けて、明治29年にも昭和8年にも津波はここまで来て集落は全滅し、生き残ったのは前に2人、後に4人だけだったと記す。

ほかの碑も同じように語りかける。1934年に建てられた久慈市小袖の碑は、津波は昔から周期的に来るものであり、住民は長くこの災いを思い起こさなければならないと記す。

大船渡市の碑は「三四十年に一度は津波が来るものと思へ」と説く。1957年に建てられた釜石市の碑は、人間には忘れやすさがあるとして、この碑を見る人に忘れないよう願っている。

田老村では、1933年に最大10mの津波が村を襲った。アーカイブによれば、国や県は集落全体の高台移転を復興の基本と考えていたが、田老村は翌1934年3月、村の費用で防潮堤の建設に取りかかった。のちに県や国も加わり、防潮堤は最終的に高さ10m、総延長約2.5kmになった。

思い込みという危うさ

記憶が人を誤らせることもある。「青葉の頃には津波なし」という言い伝えがあり、内閣府の報告書によれば、1856年の津波では大槌の人びとがこれを信じて油断していたところを襲われた。

1960年、南米チリの大地震による津波は、地元ではまったく揺れを感じないまま到達した。気象庁の一覧では、国内の死者・行方不明者は142人である。

大船渡市では死者・行方不明者が53人にのぼった。宮古市の碑は、その教訓を「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」と刻んでいる。

内閣府の報告書は、津波にはそれぞれ個性があると注意をうながす。「津波の前には潮が引く」といった一つの特徴を、必ずそうなるかのように教えると、誤った思い込みを固めてしまいかねないという。

三陸の家庭で受け継がれてきた「津波てんでんこ」の教えは、行動に重きを置く。気象庁によれば、津波が来たら一人ひとりがすぐに、ばらばらに高台へ逃げよという意味である。子どもやお年寄りを助けようとして家族が全滅した経験から生まれた。置き去りにするのではなく、それぞれが逃げることで互いに生き延びられるという考えである。

2011年

2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするモーメントマグニチュード9.0の地震が起きた。警察庁は、国内の観測史上最大規模の地震だったとしている。この地震による高い津波は、東北地方の太平洋沿岸をはじめ各地を襲った。

消防庁のまとめ(2026年3月1日現在)では、岩手県の死者は5,147人、行方不明者は1,106人、全壊した住家は19,508棟である。この死者数には、震災関連死と認められた人も含まれる。震災関連死とは、避難生活などの身体的な負担による病気などで亡くなった人を指す。

復興庁は別に、岩手県の震災関連死を472人(2025年12月31日現在)と集計している。全国では、震災関連死や余震による被害も含めた消防庁の数字で、死者19,787人、行方不明者2,549人である。

それまでの備えが役立った例もある。岩手県のアーカイブによれば、1984年に完成した高さ15.5mの普代水門と太田名部防潮堤は、村を守ったとして注目された。建設を進めた村長は、自身も1933年の津波を経験していた。

洋野町の川尻地区では、2010年に完成したばかりの高さ12mの防潮堤が、10mの津波の侵入を防いだ。洋野町は、岩手・宮城・福島の3県の沿岸自治体で唯一、死者・行方不明者・負傷者が出なかった。県は、防潮堤とともに、官民一体となった津波防災への意識の高さもその理由に挙げている。

三陸の記憶を訪ねる

陸前高田市の高田松原津波復興祈念公園には、東日本大震災津波伝承館(愛称「いわてTSUNAMIメモリアル」)がある。岩手県によれば、「命を守り、海と大地と共に生きる」をテーマに、三陸の津波災害の歴史や、東日本大震災津波の写真・映像・被災物などを展示し、震災の事実と教訓を後世に伝えている。

入館は無料である。開館時間や休館日は変わることがあるため、出かける前に伝承館の公式サイトや岩手県のページで確かめてほしい。

出典

  1. 明治三陸地震津波Japan Meteorological Agency, Sendai Regional Headquarters
  2. 過去の地震津波災害Japan Meteorological Agency
  3. 報告書(1896 明治三陸地震津波)Cabinet Office, disaster lessons expert panel
  4. 1896 明治三陸地震津波 報告書 はじめに内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会
  5. 1896 明治三陸地震津波 報告書 第1章 三陸地方の津波災害概要内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会
  6. 1896 明治三陸地震津波 報告書 第6章 明治三陸地震津波災害からの復興内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会
  7. 1896 明治三陸地震津波 報告書 第7章 明治三陸地震津波災害の教訓と総合的津波防災対策への示唆内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会
  8. 災害伝承/石碑に刻まれた伝承・「教訓」(いわて震災津波アーカイブ~希望~)岩手県
  9. 災害に備え、闘ったものたち(いわて震災津波アーカイブ~希望~)岩手県
  10. 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震Japan Meteorological Agency
  11. 第1項 東日本大震災の被害状況及び主な警察活動National Police Agency
  12. 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の被害状況(令和8年3月1日現在)第166報総務省消防庁
  13. 東日本大震災における震災関連死の死者数(令和7年12月31日現在調査結果)復興庁・内閣府(防災担当)・消防庁
  14. 東日本大震災津波伝承館施設の概要岩手県