中世の約200年間、大内氏は山口を拠点に西日本の広い地域を治めた。大内氏は朝鮮や明との貿易、そして京都の文化を取り入れて町を築き、山口県観光連盟によれば、山口は「西の京」と呼ばれるほど栄えた。
1550年と1551年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがこの町を訪れ、大内氏の当主から布教を許された。この記事では、大内氏の山口、ザビエルの滞在、大内氏の終わり、そして今の山口がザビエルをどう記憶しているかをたどる。
山口に新しい本拠を置く
山口市によれば、大内氏第24代当主の大内弘世は、1360年頃に館を御堀から山口の中心地へ移した。市は、弘世がのちの大内文化が発展する基礎を築いたとしている。
文化庁は山口について、東・北・西の三方を山に囲まれ、南に開いた盆地状の小さな平野で、その間を椹野川が南へ流れていると説明する。そして、これを中世の豪族の拠点に典型的な地形としている。
弘世は、京の町を模して町づくりをしたといわれる。山口県観光連盟の説明では、町の中を流れる一の坂川を京都の鴨川に見立てて、町づくりが行われた。
大内氏の館は、今の龍福寺の境内にあったといわれる。ただし文化庁は、確かな証拠を欠くとも書いている。観光連盟によれば、館は100間四方(間は昔の長さの単位)の敷地を堀と土塁で囲んでいたといわれる。
山口市教育委員会は、この館を、大内氏が領国を治める政治の拠点であり、経済・文化の中心でもあったと説明している。館跡は1959年に国の史跡となり、1978年から発掘調査が続いている。
朝鮮・明との貿易
大内氏は、海外との貿易で富を築いた。観光連盟によれば、大内氏は14世紀の終わりから朝鮮の王朝と通交し、15世紀の半ばからは明へ送る船の運営にも加わった。
山口県の文化財には、大内氏がこの貿易に使ったと伝えられる印や文書があり、国の重要文化財になっている。その中の銅印「通信符」は、1453年に貿易の公印として朝鮮で造られたもので、現存する唯一の遺品として注目されている。
山口県は、行き来した品物も挙げている。日本からは刀や硫黄、銅、扇などが輸出され、永楽銭というお金や陶磁器、書物などが輸入された。輸入品は日本で「唐物」として人気があり、高い値段で売れたため、大内氏は大きな利益を得た。
「西の京」の文化
大内氏の時代を代表する建物が、瑠璃光寺の五重塔である。文化庁によれば、この塔は、大内義弘(1356〜1399)の死後、弟の盛見が兄を弔うために建てたと伝えられる。
大正時代の解体修理のときに、1442年(嘉吉2年)の墨書が見つかり、建てられた年代が明らかになった。高さは31.2メートルで、1952年に国宝に指定された。文化庁は、初重の内部にある円形の須弥壇について、塔では他に例がないとしている。
画僧の雪舟も、大内氏の保護のもとで活動した。観光連盟によれば、雪舟は1467年、大内政弘の時代に大内氏が運営する船で明に渡り、1469年に帰国した。その後は山口を拠点にした。
同じころ、政弘は、応仁の乱を避けて京都を離れた公家や学者を山口に受け入れた。その中には連歌師の宗祇もいた。常栄寺の庭は、雪舟が造ったと伝えられている。
館跡の発掘では、室町時代の庭園の跡が少なくとも3か所で見つかっている。最も大きな池泉庭園は南北約39メートル、東西約20メートルで、1400年代の終わり頃に造られた。近くの石組の井戸からは、金箔を貼った京都系の土師器の皿が出土した。
ザビエル、山口へ
フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)は、イエズス会の創設に加わったスペイン人の宣教師である。山口県文書館によれば、ザビエルは1549年に鹿児島に上陸し、平戸などを経て、翌年に山口に着いた。
しかし、当主の大内義隆との最初の謁見はうまくいかなかった。ザビエルは1551年の初めに京都へ向かったが、そこでは本来の目的を果たせないことを知る。そこで、目標を山口にしぼった。
ザビエルは同じ年に再び山口に入った。今度は珍しい贈り物と、インド総督やゴア司教の推薦状を携えていた。
山口県立山口図書館は、ふさわしい服装で臨んだことも伝えている。義隆はザビエルを正式に迎え、布教を許し、拠点として廃寺を与えた。
山口県は、これを日本で最初の教会としている。1551年のうちに、ザビエルは大友氏の招きに応じて山口を離れ、豊後(今の大分県)へ向かった。
ザビエルが山口にいたのは、通算でも6か月あまりにすぎない。それでも文書館は、山口での活動が日本での布教の本当の出発点だったと評価されているとし、その背景には大内氏の城下町山口の繁栄があったと説明している。
ザビエルが去った後も、宣教師たちは山口に残った。観光連盟によれば、教会はその後、ザビエルと行動をともにしていた宣教師トルレスが運営した。1552年には宣教師たちが日本人の信徒とともに山口で降誕祭を行った。山口県によれば、これが日本で最初にクリスマスが祝われた日とされている。一方、山口県文書館は、日本のクリスマスは山口から始まったという説が近年注目されていると説明している。
解釈が分かれる
「大道寺」と呼ばれる教会については、分からないことが多い。文書館によれば、大道寺と呼ばれた教会なのか、大道寺の跡に建てられた教会なのか、義隆が与えた廃寺と同じものなのかも分かっていない。場所も、今のサビエル記念公園の一帯とされるが、本圀寺の周辺とする説もある。
大内氏の終わり
大内氏の時代は、その後まもなく終わる。1551年、重臣の陶隆房らによるクーデターが起こり、義隆は自害した。跡を継いだ大内義長は、毛利氏の攻撃に備えて、1556年に町の西にある山に高嶺城を築いた。
1557年に毛利氏が攻めてくると、義長はいったん城に入ったが、守りきれないと見て長門へ逃れた。大内氏が滅んだ後、山口は毛利氏の手に渡った。館跡の池泉庭園も、大内氏が滅んだ1500年代の中頃に使われなくなった。
ザビエルを記憶する
ザビエルと山口の関わりは、何世紀も後にあらためて注目された。山口県文書館によれば、1889年に山口の教会に着任したビリオン神父が、古い山口の地図をもとに、郷土史家の近藤清石の協力を得て、大道寺の跡地を特定したとされる。
1921年に保存会ができ、1926年には、今のサビエル記念公園に高さ5メートルのゴシック様式の記念碑が建てられた。ただし文書館は、正確な跡地は隣の旧陸軍の衛戍地の中にあったと推測されると書いている。
ザビエルの来日400年を記念して、山口市の亀山に記念聖堂が建てられ、1952年に完成した。この聖堂は1991年に火事で焼け、1998年に再建された。
訪れられる場所
大内氏の館跡は、今は龍福寺の境内になっている。発掘で見つかった池泉庭園と枯山水の庭園が、復元・整備されている。
瑠璃光寺の五重塔は香山公園にあり、公園には大内弘世や雪舟の像もある。雪舟庭として知られる常栄寺の庭も、山口市にある。
1926年の記念碑が立つサビエル記念公園は、山口市金古曽町にある。亀山の山口サビエル記念聖堂とは別の場所である。開いている時間や料金は、訪れる前に公式サイトで確認してほしい。
出典
- 大内弘世墓(山口市の歴史文化資源)Yamaguchi City
- 大内氏遺跡 附 凌雲寺跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 瑠璃光寺五重塔Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 関連文化財群(3)今に息づく大内氏の歴史文化Yamaguchi City
- 大内氏勘合貿易印等関係資料Yamaguchi Prefecture (Cultural Properties)
- 山口まめ知識Yamaguchi Prefecture (Public Relations Division)
- 資料展示「フランシスコ・サビエルの肖像」Yamaguchi Prefectural Library
- 3-1-3 ヨーロッパ人との出会い キリスト教の伝来(フランシスコ・サビエル肖像 解説)Yamaguchi Prefectural Archives (山口県文書館)
- 記念碑でかたりつぐ(第20回中国四国地区アーカイブズウィーク 展示パネル16)Yamaguchi Prefectural Archives (山口県文書館)
- 史跡 大内氏館跡 池泉庭園(パンフレット)Yamaguchi City Board of Education (山口市教育委員会 文化財保護課)
- 室町時代に「西の京」山口で華ひらいた「大内文化」とはYamaguchi Prefectural Tourism Federation (山口県観光連盟, おいでませ山口へ)
- 大内氏館跡(大内氏遺跡)Yamaguchi Prefectural Tourism Federation (山口県観光連盟, おいでませ山口へ)
- サビエル公園Yamaguchi Prefectural Tourism Federation (山口県観光連盟, おいでませ山口へ)
