近江は、琵琶湖を囲む旧国の名で、今の滋賀県にあたる。江戸時代、近江のいくつかの町の商人たちは、近江に本家を置いたまま、遠く離れた土地で商いをした。こうした商人をまとめて近江商人と呼ぶ。
滋賀大学は、近江商人を近世を代表する商人と位置づけている。はじめは行商から出発し、商圏が広がるにつれて全国各地に出店を設けた。
共同企業や会計帳簿に見られるように、合理的な経営を行ったという。この記事では、近江商人がどこから現れ、どのように商いをしたのか、そして今どこでその家を見られるのかをたどる。
天秤棒をかつぐ行商人
東洋大学の幸田浩文による2018年の論文は、近江商人といえば、江戸時代初期から天秤棒をかついで全国の商圏を巡る行商人の印象が強いと述べている。一方で同じ論文は、出身地ごとに行商の範囲や売る品物、売り方が異なっていたことも強調している。
滋賀大学によれば、近江商人の商いはやがて全国に及んだが、初めの中心は北関東・東北・北陸・山陰地方で、当時は経済的に遅れた地域だった。しかも不況の時期に進出したため、安く売らざるを得なかった。
薄い利益を補うには、商品の回転を速め、取引の量を増やす必要があった。滋賀大学は、その結果として、市場調査(マーケティング)や、商売の危険を分け合うための資本の結合(共同企業)といった、今の企業活動のもととされるやり方が生まれたと説明している。
なぜ近江から
解釈が分かれる
なぜ近江から多くの行商人が出たのかについては、ひとつの答えがあるわけではない。東洋大学の論文は、多くの研究者が唱えてきた説を整理している。生活に困った渡来人・武士・町人・農民が商業に活路を求めたとする説もあれば、近江で早くから市や商業上の特権が発達していたことや、16世紀後半の楽市・楽座の政策に理由を求める説もある。
解釈が分かれる
論文はまた、近江を、農産物の豊かな穀倉で、水陸の交通の要所でもあった土地とし、農民は農業のかたわら蚊帳・畳表・麻布・日野椀・合薬などを作る時間があったと述べる。ただし、近江は商いに活路を見いださなければならないほど疲弊した土地だったという、正反対の見方もあることを付け加えている。
4つの商人のグループ
論文は、近江商人を出身地ごとに主に4つに分けている。琵琶湖の西岸を出身地とする高島商人は、戦国時代の末に現れた。近くの京都で行商をしたのち、近江商人のなかで最初に東北地方へ進出し、盛岡の町づくりにも貢献した。
続いて江戸時代初期に、今の近江八幡市を出身地とする八幡商人が登場した。地元に本家・本店を置き、江戸・京都・大坂に大きな店を出して、そこから次々に枝店を広げた。
日野商人は、大都市ではなく北関東や東北の小さな町を中心に商いをした。最後に現れたのが、今の東近江市を出身地とする湖東(五個荘)商人で、論文によれば、明治維新(1868年)を機に大都市の卸売業で成功した。
八幡―商いのための町
近江八幡は城下町として始まった。近江八幡市によれば、豊臣秀吉の甥の豊臣秀次が、天正13年(1585)に八幡山城を築き、山の周りに琵琶湖へ通じる八幡堀をつくった。この堀は、湖上の流通と防衛の両方の役目を持っていたといわれる。
町人の住む区域は、まっすぐな碁盤目状の道で区切られた。市は、京都にならったこの町づくりと、天正14年(1586)の掟書に見られる楽市・楽座などの政策が、その後の八幡商人の発展の原動力になったとしている。八幡商人は八幡に本店を置き、行商先に出店を設けた。
文化庁は、八幡がのちに近江商人の商業活動の中心となる在郷町として発展し、築城以来の碁盤目状の町割とともに、江戸時代を通じて活躍した八幡商人の質の高い町家がよく残っていると説明している。
そうした商家のひとつが西川家である。文化庁によれば、西川家は豊臣秀次が城下町をつくったときから住みついたと伝えられ、畳表や蚊帳などを広く扱った。地元の観光物産協会によれば、初代の西川利右衛門(1590〜1646年)は、江戸に「大文字屋」、大坂に「近江屋」という店を開いた。
日野―椀と薬と商人の仲間
琵琶湖の東南岸から内陸に入った日野は、東洋大学の論文によれば、約400年にわたって蒲生氏の城下町だった。中世から市が開かれ、天正10年(1582)には楽市・楽座も認められた。天文2年(1533)の城下町づくりの際に木地師や塗師が集められたことが、のちの日野椀につながった。
論文によれば、日野商人ははじめ、移っていった旧領主・蒲生氏郷の領地を頼り、奥州方面で日野椀・漆器・煙管・薬・茶などを行商した。元禄期(1688〜1704年)になると、行商先に出店を設けるようになる。主力の日野椀は、18世紀に入ると売れ行きが衰えた。
代わって主役になったのが薬である。元禄14年(1701)に日野の正野玄三が合薬をつくり、その評判が広まるにつれて、日野の薬はしだいに日野椀に取って代わり、これまでの販売網を通じて売られるようになった。
日野商人は延宝8年(1680)、800人以上が加わる「日野大当番仲間」という商人の組合をつくった。仲間は日野の商人を6つの組に分け、各組が1年ごとに持ち回りで組合の事務を担った。元禄3年(1690)の取り決めからは、他国での売掛金の回収を助けることと、街道筋の決まった宿を手配することの2つが柱だったことが分かる。
商いのしくみ
論文は、近江商人に共通するいくつかのやり方を挙げている。そのひとつが「のこぎり商い」である。
近江でつくった蚊帳・畳表・麻布・日野椀・合薬などを行商先で売り、その代金で青苧・紅花・生糸などの原材料を仕入れて持ち帰り、また商品にして売る。のこぎりは押しても引いても切れることから、この名がついた。
もうひとつが店の網の目である。本家を近江に置き、他国に拠点となる店を設け、そこから出店を開き、さらに小さな枝店を数多く広げていった。
論文は、千両たまるたびに新しい店を開く「日野の千両店」に、日野商人の商法の独自性がみられるとしている。また、何人かの商人が資金を出し合って共同で経営する「乗合商い」も行われた。
今では、近江商人は「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)という言葉と結び付けて語られることが多い。しかし滋賀大学は、この言葉そのものは近江商人の家訓や店則などの史料には見当たらないと指摘している。近年になって言い出された言葉で、近江商人の勤勉・正直・堅実な態度や「陰徳善事」の実践を簡潔に表したものだという。
訪れられる場所
近江八幡では、新町通り・永原町通り・八幡堀沿いの商家の町並みが、平成3年(1991)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。市によれば、江戸時代から明治時代の町家や蔵が建ち並んでいる。
新町通りの旧西川家住宅は、昭和58年(1983)に重要文化財に指定された。文化庁は、全体に質素なつくりで、近江商人の本宅を知るうえで重要な建物としている。観光物産協会によれば、建てられたのは1706年で、1985年から1988年にかけて修理され、今は資料館として公開されている。
東近江市の五個荘金堂地区は、平成10年(1998)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。東近江市によれば、この辺りは江戸時代の中ごろから活躍した五個荘商人の出身地である。
広い敷地に質素な主屋と白壁の土蔵が建つ近江商人の本宅が並び、地区内の近江商人屋敷では一年を通して企画展が開かれている。地区内の外村家住宅は重要文化財である。
日野では、山中家の邸宅が近江日野商人館として資料館になっている。主屋は登録有形文化財で、昭和初期の和風邸宅の特徴をよく表している。開館時間は、訪れる前にそれぞれの公式サイトで確認してほしい。
出典
- 近江商人とはShiga University Faculty of Economics
- 重要伝統的建造物群保存地区についてOmihachiman City
- 近江日野商人の独自性と売薬行商の展開Toyo University Research Center for Creation of Management Capability (東洋大学経営力創成研究センター), 『経営力創成研究』第14号
- 近江八幡市八幡(商家町 滋賀)Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
- 旧西川家住宅(滋賀県近江八幡市新町) 土蔵Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
- 旧西川利右衛門家住宅 (Former Nishikawa Riemon House)Omihachiman Tourism and Products Association (近江八幡観光物産協会; text in the Japan Tourism Agency multilingual commentary database)
- 東近江市五個荘金堂(滋賀県) 保存地区の概要Higashiomi City (東近江市; district sheet published on the Agency for Cultural Affairs site)
- 外村家住宅 前蔵Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
- 近江日野商人館(旧山中兵右衛門家住宅)主屋Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
