静岡県の伊豆半島の北部にある伊豆の国市に、煉瓦の高い煙突を持つ韮山反射炉がある。反射炉とは、金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉である。
この事業は、幕末の代官・江川英龍が手がけ、子の英敏が1857年に完成させた。伊豆の国市と静岡県によれば、韮山反射炉は、実際に稼働した反射炉として日本で唯一現存するものである。
韮山代官・江川英龍
江川英龍(号は坦庵)は、享和元年(1801)、幕府の韮山代官を代々務める江川家に生まれた。文政7年(1824)から父のもとで代官見習いとして経験を積み、天保6年(1835)に江川家第36代当主となって韮山代官に就いた。
韮山代官は、伊豆・駿河・相模・甲斐・武蔵にある幕府直轄地の支配を担当する役職である。伊豆の国市のパンフレットによれば、当時は異国船が相次いで来航し、補給や通商を求めていた。
パンフレットによれば、英龍は自ら質素倹約に努め、部下にも同じことを求めた。村々を回って困っている人々を救い、部下を派遣して実情を調べさせ、時には自ら現地に足を運んだ。困窮した村には、長期・低金利の貸付金も用意した。
その結果、管轄地の人々は英龍を「世直江川大明神」とたたえるようになったという。2026年のパンフレットは、地元では今も親しみを込めて「たんなんさん」と呼ばれていると紹介している。
海防と蘭学
英龍は、海防の問題にも深い関心を寄せていた。江戸湾を中心とした海防政策を立てるため、まず蘭学者を通じて諸外国の実情を知ろうとし、幡崎鼎・渡辺崋山・高野長英といった蘭学者と親しく交わった。
パンフレットは、西洋の事情を深く知るなかで、英龍は海防が欠かせないという思いを強くしたのだろうと述べている。英龍は、西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式の築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度など、一連の海防政策を幕府に進言した。
伊豆の国市は、西洋砲術の普及や品川台場の築造からパン食の導入まで、英龍の功績の多くを海防のための事業として紹介している。そして、鉄製の大砲を鋳造するために必要とされたのが反射炉だった。
反射炉のしくみ
伊豆の国市によれば、反射炉は17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで発達した。内部の天井がドーム状になった炉体と、煉瓦積みの高い煙突からなる。
石炭などを燃やして生まれた熱や炎を天井で反射させ、銑鉄に集中させることで、鉄を溶かすのに必要な千数百度の高温を生み出す。熱や炎を「反射」させるこのしくみから、反射炉と呼ばれた。
下田から韮山へ
幕府が実際に反射炉の築造を決めたのは、嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航後のことだった。パンフレットによれば、英龍はそれ以前から反射炉の研究を進めていたため、命令を受けるとすぐに必要な資材と職人をそろえることができた。
伊豆の国市によれば、江戸湾海防の実務責任者となった英龍に対し、幕府は江戸内湾の台場づくりと並行して反射炉の建造を命じた。蘭書の記述だけを頼りに反射炉を造るのは、非常に難しい事業だったという。
建設地は、はじめ下田港に近い賀茂郡本郷村とされ、その年の12月には基礎工事が始まった。しかし翌安政元年(1854)3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が建設地に入り込む出来事が起きた。
そこで、建設地は韮山代官所に近い田方郡中村に移された。下田での建設のために用意された煉瓦や石材は韮山に運ばれて使われ、高温に耐える耐火煉瓦は賀茂郡梨本村(今の河津町)で作られた。
設計は、ヒュゲニンが著した、王立の鉄製大砲鋳造所での鋳造法についての蘭書にもとづいている。溶解炉を二つ備えた「連双式」の炉2基を直角に配置し、四つの溶解炉を同時に動かして大型の大砲を鋳造できるようにした。
佐賀藩の力を借りて完成
韮山での建設は順調には進まなかった。英龍は安政2年(1855)正月、反射炉の完成を見ることなく亡くなった。
跡を継いだ英敏は、蘭学の導入に積極的で自らも反射炉を造っていた佐賀藩に協力を求めた。安政4年(1857)2月には、杉谷雍助・田代孫三郎ら佐賀藩の技師と職人が韮山に到着した。
そして安政4年(1857)11月、着工から3年半をかけて韮山反射炉は完成した。炉体の外側は伊豆石(凝灰岩)、内側は耐火煉瓦、煙突は煉瓦で造られ、炉体と煙突を合わせた高さは約15.7mある。
大砲をつくる工場
反射炉は、それだけで完結した施設ではなく、大砲製造工場の一部だった。伊豆の国市によれば、川のそばに作業小屋が並び、石見や南部の銑鉄を、筑後・常磐の石炭や天城の木炭で溶かして、鋳型に流し込んだ。
鋳造した砲身は、川の流れで回る水車を動力にしてくり抜かれ、別の小屋で仕上げられたのち、反射炉の近くで試し撃ちが行われた。過去の発掘調査では、砲弾の鋳型なども見つかっている。
伊豆の国市によれば、元治元年(1864)までに、韮山反射炉では鉄製18ポンドカノン砲や青銅製の野戦砲などの西洋式大砲が鋳造された。
明治日本の産業革命遺産の世界遺産協議会によれば、韮山反射炉は、1850年代に海防のための鉄製大砲を鋳造しようとオランダの技術書をもとに国内で造られた11基の金属溶解炉の一つで、実際に稼働したことが確認されている。静岡県によれば、この時代に各地で造られた反射炉のうち、今も原型を残しているのは萩と韮山だけである。
反射炉を守り伝える
反射炉は明治6年(1873)に陸軍省へ移管され、大正11年(1922)には国の史跡に指定された。伊豆の国市は、稼働を終えてから150年以上にわたり、地域の人々の理解と協力のもとで補修や修理を重ねて保存されてきたと説明している。
明治41年(1908)には煙突に鉄の帯が巻かれ、昭和32年(1957)には煙突の外側に鉄骨のトラスが取り付けられた。このトラスは、昭和60年(1985)から平成元年(1989)にかけての大規模な補強工事で新しいものに取り替えられた。
2015年、韮山反射炉は、8つのエリアの23の構成資産からなる「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産に登録された。韮山の世界遺産の範囲は、反射炉本体、関連する建物の跡地、川の部分からなる。
韮山反射炉を訪ねる
見学は、2016年に開館した韮山反射炉ガイダンスセンターから始まる。センターでは、反射炉が造られた背景や稼働当時の様子、保存の取り組みを映像や展示で紹介している。伊豆の国市によれば、見学の目安は45分から1時間ほどで、ガイドの案内も受けられる(事前の予約がすすめられている)。
代々の代官を務めた江川家の住宅(江川邸)は重要文化財で、反射炉から車で約5分のところにある。反射炉との共通入場券も販売されている。開館時間や料金は、訪れる前に公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 韮山反射炉とはIzunokuni City
- 韮山反射炉Shizuoka Prefecture
- 韮山反射炉解説パンフレット(P2・P11:海防政策の革新/反射炉築造への道/江川家住宅)伊豆の国市教育部歴史文化課 (Izunokuni City Education Department, History and Culture Division)
- 韮山反射炉解説パンフレット(P3・P10:韮山反射炉を造った男 江川英龍)伊豆の国市教育部歴史文化課 (Izunokuni City Education Department, History and Culture Division)
- 韮山反射炉解説パンフレット(P4・P9:築造に至る歴史的背景/なぜ「反射炉」と呼ばれるのか)伊豆の国市教育部歴史文化課 (Izunokuni City Education Department, History and Culture Division)
- 韮山反射炉解説パンフレット(P5・P8:築造の経過/韮山反射炉の歴史/ガイダンスセンター)伊豆の国市教育部歴史文化課 (Izunokuni City Education Department, History and Culture Division)
- 韮山反射炉解説パンフレット(P6・P7:大砲製造工場としての産業システム/韮山反射炉の変遷)伊豆の国市教育部歴史文化課 (Izunokuni City Education Department, History and Culture Division)
- 韮山反射炉見学Izunokuni City
- 韮山反射炉(ストーリー&サイト)World Heritage Council for the Sites of Japan's Meiji Industrial Revolution
