Japan Through Time

高知県 · 1841–1852年 · 近世 · 江戸時代 · 近代 · 明治時代

John Manjirō: From Castaway to Interpreter Between Japan and America

ジョン万次郎―漂流からアメリカへ

1841年に漁に出て遭難した土佐の漁師の子は、アメリカの捕鯨船に救われてマサチューセッツで学び、帰国後は開国へ向かう日本で幕府に仕えた。

約6分 · 出典 7件

年を重ねた中浜万次郎の白黒の胸像写真。髪を剃った頭で、白い着物の上に濃い色の羽織を着て、正面を向いている
中浜万次郎。マサチューセッツ州フェアヘーブンのミリセント図書館が1918年に出した冊子に載った写真。Photographer uncredited · Wikimedia Commons · Public domain · 出典 · 縮小して掲載

1841年、土佐の漁村に生まれた14歳の少年が漁に出たまま、11年以上も故郷に戻らなかった。国立国会図書館は、この人物を「漂流民、通訳、教育者」と紹介している。アメリカの捕鯨船に救われた少年はアメリカで育って学び、ペリー来航の直前に日本へ帰ってきた。

日本ではジョン万次郎、のちには中浜万次郎の名で知られる。この記事では、国立国会図書館、土佐清水市、高知県立坂本龍馬記念館の資料をもとに、中浜の浜からマサチューセッツへ渡り、ふたたび日本へ戻るまでの歩みをたどる。

漁師の子、鳥島へ

土佐清水市によれば、万次郎は1827年、今の高知県土佐清水市中浜の、貧しい漁師の家に生まれた。2男3女の次男だった。市の年表には、9歳で父を亡くしたとある。

1841年、14歳の万次郎は、その年の初漁で仲間4人とともに長さ8メートルの小舟に乗って漁に出た。市の年表は、これを正月5日(旧暦)、足摺岬の沖でのこととしている。3日後に舟はしけに遭い、漂流した。

さらに6日後、5人は太平洋の無人島・鳥島に流れ着いた。市によれば、土佐清水市から海上760キロ南の島である。

年表によると、一行はわずかな雨水と海藻、海鳥を口にして生きのびた。143日後、海亀の卵を食料にしようと島に来たアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に見つけられ、助けられた。

助けられても、すぐに帰れたわけではない。土佐清水市の説明では、当時の日本は鎖国の時代で、外国船は日本に近づくことさえ難しかった。

たとえ帰国しても、外国人と接触したというだけで命の保証はなかった。市は、1837年に漂流者を乗せて浦賀に入ろうとしたアメリカのモリソン号が撃退された事件があったばかりだったと記している。

マサチューセッツでの暮らし

船長のウィリアム・H・ホイットフィールドは、5人の漂流者をハワイへ連れて行った。市によれば、万次郎はここでひとりアメリカへ渡ることを決め、船長はこれを快く受け入れた。

仲間4人はハワイに残った。万次郎は船の名にちなんで「ジョン・マン」という愛称をつけられた。

救出から2年後の1843年、ジョン・ハウランド号は、市が「アメリカ最大の捕鯨基地」と呼ぶマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した。土佐清水市は、万次郎を日本人として初めてアメリカ本土の土を踏んだ人物としている。

国立国会図書館によれば、万次郎は船長の好意でアメリカで教育を受けた。土佐清水市は、ホイットフィールドが万次郎を故郷のフェアヘーブンに連れ帰り、英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ばせたと書く。市の年表はオックスフォード校とバートレット校の名を挙げ、市は万次郎を「日本人留学生第1号」と呼んでいる。

学校を終えた万次郎は、ふたたび捕鯨船で海に出た。年表によれば、1846年から捕鯨船フランクリン号に乗り、大西洋から喜望峰をまわってインド洋へと航海し、1848年には一等航海士となった。

フェアヘーブンに戻ると、カリフォルニアではゴールドラッシュが起きていた。市によれば、万次郎は帰国の資金を得ようと西部へ向かい、600ドルを稼ぐと、すぐに漂流仲間のいるハワイへ向かった。年表では、アドベンチャー号という小舟を買い、伝蔵(筆之丞)ら仲間2人とともにサラ・ボイド号に乗り込んだとされる。

土佐へ帰る道

1851年、万次郎は琉球(今の沖縄県)に上陸した。漂流から10年後のことだった。

国立国会図書館によれば、万次郎は取り調べを受けたのち、1852年に土佐へ帰った。土佐清水市は、約半年のあいだ琉球にとどめられたのち、薩摩、長崎へと送られて取り調べを受けたと説明している。

市の年表によれば、長崎奉行所での尋問は18回に及んだ。土佐では、藩主山内豊信の命により、吉田東洋から70日間の取り調べを受けた。そして11年10か月ぶりに母と再会したが、ともに過ごせたのはわずか5日間だったという。

万次郎の語る外国の話は、人々の関心を集めた。高知県立坂本龍馬記念館によれば、1852年、河田小龍は帰国した万次郎を自宅に住まわせ、航海の体験や海外の事情を聞き取って『漂巽紀略』を書き上げた。記念館は、万次郎の漂流記の写本が何種類も出回ったといわれることも紹介している。

藩と幕府に仕える

土佐清水市によれば、万次郎は土佐藩から、最下級ながら士分に取り立てられた。市はこれを、身分制度の厳しい時代の異例の出世としている。年表では、藩校「教授館」の教授となり、後藤象二郎や岩崎弥太郎らが直接指導を受けたとされる。

帰国の翌年の1853年、ペリーの艦隊が来航した。国立国会図書館によれば、幕府は万次郎を呼び寄せ、中浜の姓を授けた。市の年表は、江川太郎左衛門の手附となり、幕府の直参になったと記している。

解釈が分かれる

万次郎がいつから「中浜」を名のったのかについては、土佐清水市のページの間でも書き方が違う。年表は1853年の幕府による召し出しと結び付け、別のページは土佐藩の士分への取り立てと結び付けている。どのページも、出身地の中浜を姓にしたという点では一致している。

万次郎を歓迎する人ばかりではなかった。市によれば、その有能さゆえに、水戸藩など保守的な藩からはアメリカのスパイではないかと恐れられ、ペリーの2回目の来航の際には通訳から外された。その後は、翻訳、造船、航海、測量、捕鯨などの仕事に携わった。

年表には、1855年に航海学の書物を筆写し、1859年に英会話の本『英米対話捷径』を編んだことが挙げられている。1857年には軍艦教授所の教授となり、捕鯨術を教えるため箱館へ向かった。

ふたたび太平洋を越えて

1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカへ使節団を送った。土佐清水市はこれを初の公式海外使節団としている。

国立国会図書館によれば、万次郎は通訳として咸臨丸に乗ってアメリカへ渡った。市は、船上に勝海舟や福沢諭吉の姿もあったと記している。

国立国会図書館によれば、帰国後の万次郎は、小笠原の開拓調査に加わり、開成所(のちの東京大学)の教授となるなど、幕末から明治にかけて活躍した。市の年表は、1870年のヨーロッパへの渡航も挙げている。万次郎は東京で71歳の生涯を終えた。

土佐清水市は、坂本龍馬が、河田小龍を通じて万次郎のアメリカでの生活や民主主義を知ったといわれていると紹介している。また、板垣退助・中江兆民・岩崎弥太郎などにも大きな影響を与えたとされている、とも書いている。

訪れられる場所

土佐清水市のジョン万次郎資料館は、2006年に足摺岬地区から「海の駅あしずり」の構内へ移転した。市によれば、模型やパネルで万次郎の生涯を紹介しており、あしずり港広場には万次郎少年像が置かれている。開館時間は資料館の公式サイトで確認してほしい。

生まれ故郷の中浜には、資料館の公式サイトによれば、帰郷150周年を記念してつくられた生誕地の石碑と、復元された生家がある。生家は、市内の有志が集めた募金などで、残っていた写真をもとに茅葺きの木造平屋として復元された。2010年に完成し、無料で公開されている。

市によれば、足摺岬の入り口には万次郎の銅像が立ち、「第2の故郷」フェアヘーブンの方角を見つめている。高知市の高知県立坂本龍馬記念館にはジョン万次郎展示室があり、『漂巽紀略』も展示資料として紹介されている。

出典

  1. 中浜万次郎(近代日本人の肖像)National Diet Library
  2. ジョン万次郎の生涯Tosashimizu City
  3. 常設展 ジョン万次郎展示室Kōchi Prefectural Sakamoto Ryōma Memorial Museum
  4. ジョン万次郎の歴史Tosashimizu City
  5. ジョン万次郎資料館(海の駅あしずり)Tosashimizu City
  6. ジョン万次郎生誕地Tosashimizu City
  7. ジョン万次郎ゆかりの地John Manjirō Museum (Tosashimizu City Tourism Association)