天正10年6月2日(1582年、旧暦)の早朝、明智光秀の軍勢が、主君の織田信長が宿所としていた京都の本能寺を襲った。信長は自刃し、本能寺は炎上した。同じ日、信長の嫡男の信忠も京都で命を落とした。
この日付は、日本で昔使われていた太陰太陽暦(旧暦)によるものである。日本がグレゴリオ暦(今の暦)に切り替えたのは1873年なので、1582年の「6月」を今の6月と読むことはできない。この記事では、記録から分かること、地中から見つかったもの、そして光秀の動機がいまも議論されている理由をたどる。
信長と京都、そして1582年の春
信長は永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて岐阜から京都に入った。義昭は室町幕府の第15代将軍となる。
京都市によれば、信長は義昭のために京都の町なかに城を築いた。のちに二人が敵対すると、城は取り壊され、資材は信長の新しい城である安土城に運ばれた。
1582年の信長は、京都市考古資料館の言葉を借りれば「天下統一に向けて邁進していた」。同館の年表によれば、信長は4月21日に甲斐での戦いから安土城へ凱旋した。
5月15日、光秀は安土城で徳川家康をもてなす役を命じられる。その2日後、信長は西国の毛利氏を攻めるために自ら出陣することを決め、光秀は出陣の準備のため居城の坂本城へ戻った。
同じころ、四国でも戦いが計画されていた。5月7日、信長は三男の信孝を四国攻めの総大将に任じた。本能寺の変が起きたとき、信孝はその軍勢とともに大坂にいた。
光秀は26日、亀山城(今の亀岡市)に移った。信長は29日に京都に入って本能寺を宿所とし、6月1日にはそこで茶会を開いた。
夜の進軍と襲撃
6月1日の夜、光秀の軍勢は亀山城を出発した。亀岡市はその数を1万3,000とし、ある研究者は約1万3千から2万人としている。軍勢は老ノ坂を越えて京都へ向かった。
夜明け前の桂川のほとりで、光秀は部下に「敵は本能寺にあり」と告げたと伝えられる。ただし亀岡市も、これを確かな記録ではなく「といわれる」話として紹介している。
解釈が分かれる
その数日前、光秀は愛宕山で連歌会を開いていた(亀岡市は5月28日、京都市考古資料館は5月27日とする)。このとき光秀が詠んだ発句は、謀反の意志を込めたものと読まれることが多い。しかし亀岡市は、この連歌会の別の記録では発句の文字が異なっていると紹介している。亀岡市はさらに、光秀を悪者にしようとした後世の為政者が、その読み方を作り出した可能性もあるとしている。
2日、光秀の軍勢は本能寺を襲い、信長はそこで命を落とした。軍勢は続いて二条御新造を襲った。
ここはもと公家の二条家の屋敷で、信長が譲り受け、のちに皇太子の誠仁親王に献上していた。親王が退去したのち、信忠とその側近たちはここで戦い、討ち死にした。
本能寺の跡と地中の記録
1582年の本能寺は、今の本能寺とは別の場所にあった。京都市の石碑の記録によれば、当時の寺域は北を六角、南を蛸薬師、東を西洞院、西を油小路に囲まれていた。京都市考古資料館は、その広さを約120メートル四方としている。
発掘調査によって、文献の記録が形となって確かめられてきた。寺域の中からは、石垣を積んだ堀が見つかり、寺の名の「能」の字が入った瓦が出土した。さらに、熱で赤く変色した瓦や焼けた壁土など、16世紀後半のものも見つかっている。
また、16世紀末ごろの整地層も見つかり、同館は変のあとに地面をならした層としている。同館は、寺の建物の配置などには未解決の問題が多く残り、本能寺の変の検証は「まだまだこれから」だとしている。
変のあと
京都に残る文書は、突然の政変に人々がどう対応したかを伝えている。寺社や町は軍勢に「禁制」という文書を求めた。
禁制の条文はあらかじめ作られており、求めた側の名が宛所として書き加えられたと考えられている。京都府立京都学・歴彩館によれば、光秀は6月3日に大山崎へ、7日に上賀茂と貴船へ、9日に大徳寺へ禁制を出した。
一方、信孝も東寺などに禁制を出している。東寺に宛てたものは、軍勢の乱暴、境内での陣取り、田畑の作物の刈り取りを禁じていた。
光秀は数日のうちに信長の安土城に入った。しかし、その支配は長く続かなかった。
6月13日、山城と摂津の国境にあたる山崎で、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍勢などを含む信孝方が光秀の軍勢を破った。光秀はその夜、敗走の途中、小栗栖で討たれた。
京都市の年表は、この結果、秀吉が頭角をあらわしたと記している。翌年6月、秀吉は大坂城に入った。
光秀の重臣の斎藤利三は捕らえられ、17日に京都の町なかを引き回された。当時の公家たちは日記に、利三が謀反の中心人物だったと書き残している。
光秀はなぜ信長を討ったのか
解釈が分かれる
光秀がなぜ主君を討ったのかは、確かなことが分かっていない。京都産業大学日本文化研究所の紀要に載った研究は、江戸時代から今日まで、確かな史料に基づかない俗説も含めて、さまざまな説が出されてきたと述べている。福知山の推進協議会がまとめた資料は、ある研究者の整理による約50の説を一覧にしている。京都市観光協会も、光秀の出自や最期には今も多くの謎が残るとしている。
解釈が分かれる
長い間、もっともよく知られていたのは、信長の厳しい仕打ちに耐えかねた光秀が恨みを晴らしたという「怨恨説」である。京都産業大学の研究によれば、この見方は江戸時代に軍記物などを通じて広まり、明治時代にも主流だった。福知山の資料は、これを今も通説としつつ、信長が光秀を辱めたという話の多くは、変から時代が下った江戸時代に書かれたものが出典になっていると指摘している。
解釈が分かれる
ほかに、徳富蘇峰が大正時代に打ち出した、天下を取りたいという「野望説」もある。また、朝廷、元将軍の義昭、秀吉、家康、堺の商人、イエズス会など、光秀の背後に別の誰かがいたとする「黒幕説」もある。これらはあくまで説として挙げられているものである。
解釈が分かれる
京都産業大学の研究は、いわゆる「四国説」も論じている。この説では、土佐を本拠とする長宗我部元親に対する信長の方針が変わったことで、元親との取り次ぎ役だった光秀が苦しい立場に追い込まれたとする。ほかの説と同じく、これも解釈の一つであり、確定した事実ではない。
訪れられる場所
1582年の本能寺の場所には石碑が立っている。場所は中京区の油小路通蛸薬師下る東側で、1994年に本能寺が建てた。碑の銘板には、たびたび移った寺の歩みが、寺自身の言葉で記されている。
今の本能寺は、寺町通御池下るにある。秀吉の命でこの地に移ったが、移転の年は資料によって異なる。
京都市観光協会は1589年、京都市考古資料館は1591年、寺は1592年としている。寺は江戸時代にも火災で焼け、今の本堂は1928年に再建されたものである。
境内には、寺によれば信孝の命で建てられた信長の御廟がある。宝物館の大寶殿には、寺が信長の所蔵品とする茶道具や書状が並ぶ。
変の前夜に鳴いて異変を知らせたという伝説のある唐銅の香炉「三足の蛙」も展示されている。開館時間や展示替えについては、訪れる前に寺の公式サイトで確認してほしい。
出典
- 明智光秀と「本能寺の変」(第312回京都市考古資料館文化財講座・アスニー京都学講座 資料)Kyoto City Archaeological Museum / Kyoto City Archaeological Research Institute (京都市考古資料館・京都市埋蔵文化財研究所)
- 本能寺跡Kyoto City
- 京都の歴史年表―都市のすがたKyoto City
- 東寺の禁制Kyoto Institute, Library and Archives
- 旧二条城跡の発掘調査(京都市内の埋蔵文化財 発掘調査速報 No.002)Kyoto City (京都市 文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課)
- History2 歴史上最大の下克上「本能寺の変」とはKameoka City
- 本能寺の変の再検証―先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合Institute of Japanese Culture, Kyoto Sangyo University
- Calendar History 2 — The Japanese CalendarNational Diet Library
- 明智光秀は、なぜ本能寺で主君・織田信長を討ったのか?(本能寺の変の真相をめぐる諸説)福知山光秀プロジェクト推進協議会 (Fukuchiyama Mitsuhide Project Promotion Council; hosted on the Fukuchiyama City website)
- 明智光秀 京都・ゆかりの地をめぐる京都市観光協会 (Kyoto City Tourism Association)
- 本能寺について法華宗大本山 本能寺 (Honnōji Temple)
- 境内のご案内法華宗大本山 本能寺 (Honnōji Temple)
