今の福井県越前市、武生盆地の東の山すそに、長いあいだ手で紙を漉いてきた五つの村がある。不老(おいず)・大滝・岩本・新在家・定友の五つで、まとめて「五箇(ごか)」と呼ばれる。『福井県史』によれば、主にこの五箇で作られる越前和紙は、中世後期から現代にいたるまで高い評価を得てきた。
この記事では、越前和紙を、土地に伝わる伝説から、中世の文書、江戸時代の藩札、そして今に受け継がれる技術までたどる。
川上に現れた姫
越前市は、紙すきの始まりについて一つの伝説を紹介している。今から1500年ほど前、岡太(おかもと)川の上流に美しい姫が現れ、「この地は清らかな水に恵まれているから、紙漉きをして生計を立てよ」と、村人にねんごろに紙漉きの技を教えたという。
村人が名を尋ねると、姫は「岡太川の川上に住む者」とだけ答えて消えてしまった。人びとはこの姫を「川上御前」とあがめて岡太神社を建てて祀り、市によれば、その教えを守って紙漉きの技を今に伝えている。
これは伝説であり、年代の確かな記録ではない。越前の紙についての文書の記録は、もっと後の時代から少しずつ現れる。
古代・中世の越前の紙
紙は、古代の国家の税の仕組みにも組み込まれていた。『福井県史』によれば、『延喜式』では越前・若狭ともに紙を税(中男作物)として納め、紙の原料となる紙麻(かま)も毎年の貢ぎ物として納めることになっていた。
越前市によれば、正倉院に残る「越前国大税帳」は、越前産の和紙として現存する最古のものである。市は、全国に寺院が建てられて写経が行われるようになると、写経用の紙の需要が高まり、越前でも多くの紙が求められたと考えられる、としている。
その後の記録にも紙工の姿が見える。平安時代末期の文書目録には国衙に属する紙工が現れ、鎌倉時代初期には若狭の荘園に紙漉が住んでいた。
『福井県史』は、確かな古文書に越前和紙が初めて現れるのを、1460年(長禄4年)の納所注文としている。それによると、正月に府中総社へ年賀に参った河野浦の人びとは、神主から引出物として「大滝さつし」を隔年にもらうことになっていた。
この紙は、書写用に加工された紙だった。県史は、このころすでに大滝を中心とする高級紙の生産が確立していたことが分かる、としている。
その直後の文明年間(1469〜1487年)から、越前は、京都や奈良の貴族や僧侶たちから、鳥子・薄様・打曇など、ジンチョウゲ科の雁皮を原料とする最高級の紙の産地として、にわかに注目されるようになった。
県史は、その背景に、朝倉氏による越前支配の安定と、紙づくりに携わった職人たちの技術の進歩があったと考えている。のちに「越前奉書」として有名になる楮(こうぞ)の高級紙も、元亀4年(1573)正月の日記に「奉書かミ」として現れ、近世の紙づくりの技術はこのころまでに確立していたという。
奉書と三田村家
奉書とは、もともと主人の意志を受けて従者が署名して出す文書の形式のことで、それを記す公文書用の紙のことも指す。文化庁によれば、江戸時代には各藩で奉書が漉かれたが、越前の奉書は日本一と高く評価された。
織田・豊臣の時代には、大滝神社の大滝掃部という人物が紙漉の元締めとされ、奉書紙の調達を命じられた。県史は、この大滝掃部を三田村家の紙業の祖としている。
1601年(慶長6年)、結城秀康が三田村家の奉書紙職を認めた。それ以降、三田村家は近世の五箇の紙づくりの中心となった。文化庁によれば、近世の初めから、和紙の生産・販売に関する権益と地位を独占してきたのが三田村家である。
越前市は、越前が「越前奉書」など最高品質の紙の産地として、幕府や領主の保護を受けて発展してきたとまとめている。
お札になった紙
越前の紙は、お金にも使われた。福井県文書館によれば、福井藩は財政難に対処するため、寛文元年(1661)8月(旧暦)に藩札を発行した。文書館は、藩の財政を補うための藩札としては早い例だとしている。
藩札の発行はいったん止まったが、1730年(享保15年)に復活し、幕末まで続いた。藩札用の紙は五箇で漉かれ、今の紙幣と同じように厳しい管理のもとに置かれていた。
解釈が分かれる
福井県文書館の展示パネルは、加藤河内家文書に記された、紙漉きたちと藩とのあいだの一件も紹介している。
解釈が分かれる
幕末の政治的・経済的な混乱のなかで奉書紙の値段が大きく下がると、五箇の漉屋たちは休業を願い出た。三岡八郎(のちの由利公正)ら藩の役人は、願書に外国船の来航のことが書かれていたことをとがめた。
解釈が分かれる
藩は漉職や道具(簀・桁)を取り上げ、五箇の500軒に閉門・謹慎などを命じた。関係者の入牢など厳しい処分と引き換えにようやく漉職が許され、村々から毎日3人ずつが約2か月にわたって福井へお詫びに通った結果、入牢や謹慎が解かれた。
解釈が分かれる
文書館は、藩士の経歴の記録をもとに、この一件を1863年(文久3年)のこととしている。一方、『今立町誌』はこれを1864年(元治元年)のこととしている。
文書館の年代によればその5年後にあたる1868年(慶応4年)、三岡の建議によって明治政府の太政官札が発行されることになり、五箇の紙が札紙に指定された。大量の注文を受けた五箇は活気づいた。
今に受け継がれる技
文化庁によれば、明治時代以降、楮だけを使う伝統的な越前奉書(生漉奉書)は少なくなった。それでも、浮世絵木版画を復興する試みなどの新しい需要にこたえて、高度な技術が受け継がれてきた。
文化庁は、その技術の特色として、手打ちによる叩解、「紙出し」に代表される入念な原料処理、伝統的な白土の添加、時間をかけたゆるやかな抄紙、板干しによる乾燥を挙げている。現在の主な用途は版画用紙で、書画用紙や日本刀の拭い紙、手紙用の巻紙などにも使われる。
越前奉書の製作技術は、2000年に国の重要無形文化財に指定された。越前市は、横山大観をはじめ多くの芸術家などの強い支持を得て、越前和紙の名が全国に知られているとしている。
2017年には、雁皮紙の「越前鳥の子紙」も重要無形文化財に指定された。文化庁によれば、越前では室町時代にはすでに料紙用の鳥の子紙が漉かれ、18世紀には幅三尺を超える大判の間似合紙も作られるようになり、明治時代以降は襖紙が盛んに漉かれた。
『下学集』(1444年)によれば、「鳥の子」の名は紙の色が卵の殻の色に似ていることに由来する。雁皮の白皮を原料に、トロロアオイの根やノリウツギの樹皮を「ねり」として使い、竹簀で漉いて、銀杏の干し板などに貼って乾かす。
2025年12月11日、ユネスコの政府間委員会は、拡張された「和紙:日本の手漉和紙技術」を人類の無形文化遺産の代表的な一覧表に記載することを決め、文化庁によれば、このとき「越前鳥の子紙」が新たな要素として加わった。文化庁の仮訳によれば、決議は越前鳥の子紙を無形文化遺産の保護と持続可能な発展の相互依存的な関係を示す良い例とし、手漉和紙は原料の植物を過度に採取することなく作られると述べている。また、新たに加わるコミュニティの多数を占める女性の役割にも触れている。
越前市は、ウェブサイト(2023年更新)で、越前を品質・種類・量ともに日本一の和紙産地としている。
五箇を訪ねる
2026年現在、越前市は和紙の里の施設として三つを挙げている。越前和紙の歴史を知る「紙の文化博物館」、紙漉きの技を見学できる「卯立の工芸館」、紙漉きを体験できる「パピルス館」である。開館時間などは、出かける前に公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 越前和紙の歴史Fukui Prefectural Archives
- 越前和紙Echizen City
- 越前奉書Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 越前鳥の子紙Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 「和紙:日本の手漉和紙技術」「山・鉾・屋台行事」「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」の拡張提案に係るユネスコ無形文化遺産代表一覧表登録Agency for Cultural Affairs
- 三田村氏庭園Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 福井の藩札(学校向けアーカイブズガイド)Fukui Prefectural Archives
- 三岡八郎(由利公正)と今立五箇の「浅からぬ縁」Fukui Prefectural Archives
