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The Dōjima Rice Market: Where Osaka Set the Price of Rice

堂島米市場―大坂で決まった米の値段

江戸時代の大坂では、諸藩が年貢米を売って米切手という証券を出し、堂島の商人たちはその米切手や「帳面の上の米」を売り買いした。ここで決まった米の値段は、飛脚や旗振りで全国へ伝えられた。

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灰色の幅の広い段の上に、格子柄の着物を着た人々の足と草履が並ぶ多色刷りの木版画。地面には扇子と脱げた草履が落ち、段の下では3人の男が見上げていて、1人は口を大きく開けている
後世の作品歌川國員「堂じま米市」(『浪花百景』、19世紀、大阪市立図書館蔵)。市場に集まる人々を描いた絵で、1730年の公認よりずっと後に描かれたもの。Utagawa Kunikazu, 1800s · Wikimedia Commons (digital image from the Osaka Municipal Library Digital Archive) · Creative Commons Attribution 4.0 International · 出典 · 縮小して掲載

江戸時代の日本で、米はただの食べ物ではなかった。諸藩は米を年貢として集め、その多くを大坂などの大都市へ運んで売った。堂島川の北岸にあった堂島では、商人たちがその米を受け取る権利を記した証券を売り買いし、ここで決まった値段が全国の米相場の基準となった。

大阪市は、堂島米市場を日本における取引所の起源とし、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られているとしている。この記事では、市場がどのように生まれ、取引がどう行われたのか、研究者がなぜ「先物」という言葉に慎重なのか、そして跡地で今何が見られるのかをたどる。

全国の市場の「要」となった大坂

国立国会図書館は、大坂の経済が発展した理由を次のように説明している。大坂は幕府が直接治める城下町で、前に瀬戸内海、後ろに京都や大和と結ぶ淀川・大和川をひかえ、水上交通に恵まれていた。

さらに寛文期(1661〜1673年)ごろには、日本海から下関を経て瀬戸内海を回り、大坂に至る西廻り航路が開かれた。大坂と江戸を結ぶ海運も広がり、大坂は全国的な市場の「要」の位置を占めるようになった。同館は、堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場を近世大坂の3大市場としている。

その中心にあったのが米である。同館によれば、各藩の領主は自分たちが消費する分を除いた米を売り、その代金で物資を買った。

これが市場を育て、貨幣経済の発達を促した。領主が米を売る市場は大坂に集中し、大坂の米の値段は全国の標準相場となっていった。

蔵屋敷と米切手

米を売るため、多くの藩は中之島とその周辺に蔵屋敷を構えた。大阪歴史博物館によれば、藩はここで年貢米や特産品を売りさばき、その数は天保年間(1840年頃)には120邸あまりに達した。

同館は、蔵屋敷が各藩の財政を支えると同時に、堂島米市場の誕生をはじめ大坂の発展の原動力になったとしている。発掘調査からは、さまざまな形の蔵屋敷があったことが分かってきた。佐賀・広島・高松藩などのように船入・蔵・御殿を備えたものもあれば、秋田矢島藩のように船入を持たず、敷地いっぱいに蔵だけを建てたものもあった。

売り買いは紙の上で行われた。日本取引所グループによれば、藩は蔵屋敷に納めた年貢米を入札で米仲買人に売り、落札した人には米切手を出した。米切手は、1枚につき10石の米と引き換えることを約束した証券である。

米切手は、いつも蔵にある米を表していたわけではない。まだ大坂に着いていない米や、これから収穫される米を対象にしたものもあった。そして米切手そのものが、盛んに売り買いされるようになった。

路上の米市から、幕府公認の市場へ

取引は、もともと別の場所で始まった。大阪市によれば、江戸時代の初め、各地から運ばれた米の取引は、土佐堀川沿いの北浜の路上で行われていた。中心となっていたのが豪商の淀屋だったため、「淀屋の米市」とも呼ばれた。

元禄10年(1697)頃、米市は堂島へ移った。大阪市は、路上の取引が交通の妨げになったことと、開発されたばかりの堂島新地を盛り立てるためだったことを理由に挙げている。国立国会図書館は、堂島新地の町割りが、河村瑞賢による堂島川の改修によって行われたと説明している。

米切手の売り買いは、いつも認められていたわけではない。国立国会図書館によれば、幕府はこれを禁止していた。しかし享保の初め(1716年)、米の値段が下がったため、値段を引き上げる策として米切手の売買を許した。

享保15年(1730)、幕府は堂島で行われる2種類の取引を公認した。米切手を売り買いする「正米商い」と、米の代表的な銘柄を帳面の上で売り買いする「帳合米商い」である。日本取引所グループは、「米将軍」と呼ばれた8代将軍徳川吉宗が、米価を引き上げるために堂島米市場を公認したとしている。

経済史の研究者である高槻泰郎・上東貴志は、その手順をさらに詳しく書いている。1730年に幕府は堂島での取引を「勝手次第」とし、翌年から翌々年にかけて堂島の米仲買を株仲間に編成した。これによって、堂島米市場は正式に幕府公認の米市場となった。

取引の仕組み

日本取引所グループは、堂島米市場には近代の取引所に通じる会員制度や清算の仕組みが整えられていたとしている。日本銀行の白川方明総裁は2012年の講演で、18世紀初めの堂島の米取引には、証拠金と差金決済の仕組みがあったと述べた。

白川総裁はまた、米の値段がそこでの日々の取引で決まっていたこと、市場の周りの商家が、米を主な収入とする武士に金融のサービスを提供していたことにも触れている。

取引は、立派な建物の中ではなく、米会所の前の路上で行われた。日本取引所グループによれば、公式の取引が終わっても居残る人を帰らせるため、水がまかれた。文化3年(1806)の大坂の地図には、堂島川の北岸に「米市場」と記されている。

堂島で決まった値段は、大坂の中にとどまらなかった。米の値段は飛脚や旗振り通信によって江戸や各地の主要な都市まで伝えられ、それぞれの土地の米相場の基準となった。

日本取引所グループの年表によれば、市場が最も盛んだったのは文化8年(1811)で、市場に出回っている米切手の残高は356万俵あまりに達した。

「先物市場」だったのか

堂島米市場は、早い時期の先物市場として紹介されることが多い。しかし研究者は、この言葉を慎重に使っている。

高槻・上東は、江戸時代の人々が自分たちの取引を「先物取引」とは呼ばず、「帳合米商い」や「延売買」などと呼んでいたことを指摘する。2人の知る限り、「先物」という言葉は江戸時代には使われていない。

2人はまた、帳合米商いは原則として米そのものの取引を想定しておらず、そのため商品先物取引ではないと述べる。むしろ現代の指数先物取引に近い取引だという。一方で、18世紀中ごろ以降の完成した形については、先物取引と呼ぶことは誤りではないとしている。

解釈が分かれる

帳合米商いがなぜ生まれたのかは、解釈が分かれる。高槻・上東は、帳合米商いは投機取引の手段として考え出され、先物取引にふつう期待される役割の一部は「事後的に」発見されたと結論づけている。2人によれば、江戸時代の中ごろから後の人々は価格発見などの機能を自覚していたが、帳合米商いが考え出された17世紀末から18世紀初めの頃から、そうした機能が期待されていたと考えるには、史料の根拠が乏しい。

解釈が分かれる

堂島米市場が世界で最初の組織的な先物取引所だったかどうかも、確定していない。白川総裁は、日本が「おそらく」世界初の組織的な先物取引所の地だったと述べた。高槻・上東は、世界初であることを厳密に確かめるのは難しく、何をもって「組織的」とするかも論者によって違うと指摘している。大阪市と日本取引所グループの日本語のページは「先駆け」と表現している。

江戸時代のあと

幕府が倒れると、市場もそのままではいられなかった。明治2年(1869)、明治政府は堂島米市場での取引を禁止した。

日本取引所グループによれば、米の値段が上がる原因とされたためである。明治4年(1871)、取引は堂島米会所として再開された。

その後、何度か組織を改め、大阪堂島米穀取引所となった。昭和14年(1939)、米穀配給統制法によって廃止された。日本取引所グループは、堂島で育った取引の制度や慣行の多くが、明治以降の商品・証券・金融先物の取引所に受け継がれたとしている。

訪れられる場所

大阪市は「歴史の散歩道」のひとつとして、堂島米市場跡の碑を紹介している。場所は北区堂島浜1丁目3、中之島ガーデンブリッジの北東詰めである。

日本取引所グループによれば、跡地には今、2つのモニュメントがある。建築家・安藤忠雄による「一粒の光」(2018年)と、彫刻家・横江嘉純による「稲に遊ぶ子供」(1955年)である。行き方などの最新の情報は、出かける前に大阪市や日本取引所グループの公式サイトで確かめてほしい。

出典

  1. 大阪の市場National Diet Library
  2. 発掘!大名たちの蔵屋敷-「天下の台所」に集う米・物・人- 開催告知Osaka City Museum Organization / Osaka Museum of History
  3. 18.堂島米市場(どうじまこめいちば)跡碑Osaka City
  4. 堂島米市場 — 世界における先物取引所の先駆けJapan Exchange Group
  5. Issues Facing the Futures Markets and the IndustryBank of Japan
  6. 投機かリスクヘッジか─堂島米市場再考─Osaka University of Economics Institute of Economic History / J-STAGE