Japan Through Time

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Arita Ware: The Beginning of Japanese Porcelain and Its Journey to the World

有田焼―日本の磁器のはじまりと世界への輸出

日本の磁器は17世紀の初め、朝鮮半島から連れて来られた陶工たちの技術によって有田で生まれた。17世紀中頃には、オランダの商人の手でヨーロッパへ運ばれるようになった。

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有田の泉山磁石場。手前に草、白っぽく平らな採掘跡の地面が広がり、黄色みを帯びた高い岩壁のふもとに岩が転がる。右手の岩には二つの暗い坑口があり、奥は木々に覆われた山
有田の泉山磁石場。長い年月にわたって陶石が掘り出された(2010年11月撮影)。Bytemarks, 2010-11-09 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution 2.0 Generic · 出典 · 縮小して掲載

有田町は有田焼を、硬く丈夫で透明感のある白磁に、藍色や赤・黄・金などの鮮やかな色を繊細にほどこした焼き物と紹介している。佐賀県立九州陶磁文化館によれば、日本の磁器は江戸時代の初めに有田一帯で生まれた。朝鮮半島からもたらされた技術によって中国の磁器をまねることから始まり、良質な陶石と佐賀藩による保護・管理を背景に、産地として発展していった。

17世紀中頃には、有田の磁器はヨーロッパへ運ばれるようになる。この記事では、朝鮮半島から連れて来られた陶工たちから輸出の時代までをたどり、その歴史を今に伝える有田の場所を紹介する。

朝鮮半島の陶工たち

九州陶磁文化館の学芸員によれば、茶の湯が流行した安土桃山時代のころから、中国や朝鮮半島から輸入された陶磁器が日本で人気を集めていた。

16世紀末、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、肥前の大名たちは朝鮮半島の陶工を連れ帰った。学芸員は、これによって肥前の各地で、海外の技術を用いたやきものづくりへの意欲が高まっていったと説明する。有田町も、やきものの町としての有田の歴史は朝鮮出兵にさかのぼり、朝鮮半島から連れて来られた陶工たちに始まるとしている。

肥前では、朝鮮出兵より少し前から、唐津焼と呼ばれる陶器がすでに作られていた。陶器は身の回りで採りやすい陶土から作られる。一方、磁器には陶石という別の原料が必要で、それまで陶石を安定して掘り出せる場所は見つかっていなかった。

泉山の陶石

解釈が分かれる

状況を変えたのが、有田の泉山だった。文化庁の日本遺産ポータルサイトと有田町はいずれも、17世紀の初めに朝鮮出身の陶工・李参平(りさんぺい)が泉山で陶石を見つけたと伝えている。李参平は日本名を金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)といい、有田観光協会の英語の記事は朝鮮語の読みを Yi Sam-pyeong としている。有田で旅行者向けにつくられた解説文は、この発見を地元の言い伝えとして紹介し、三兵衛は1655年に亡くなったとしている。

解釈が分かれる

有田観光協会によれば、李参平らは初め多久でやきものづくりに携わり、1616年についに泉山の磁石場を見つけたと言われている。いずれも言い伝えである。

確かなのはその結果である。学芸員によれば、泉山の磁石場によって磁器の大量生産が可能になり、佐賀藩の主導のもとで有田は磁器の産地として大きく発展した。有田町は、日本で初めて磁器が焼かれたのはここであり、1630年代には佐賀藩の厳しい管理のもと、今の窯業に近い分業による本格的な磁器生産が行われるようになったとしている。

有田の解説文によれば、佐賀藩を治めた鍋島家は磁石場を厳重に守った。泉山を中心とする内山地区への出入りの道には関所が設けられ、藩の許しなしにはだれも外へ出られなかったという。

中国に学ぶ

ごく初期の有田の磁器は、陶器の唐津焼と同じ窯で焼かれていた。皿を重ねて積んで焼くこの方法は朝鮮半島の民間の窯で行われていたもので、一度にたくさん焼けるが、はがすと傷が残った。学芸員は、見た目よりも安く作るための方法だったと見ている。

それでも、この初期の磁器にはすでに青い染付で絵が描かれていた。学芸員によれば、技術のルーツである朝鮮半島では、染付は宮廷用の一部でしか作られていなかった。日本で染付が使われたのは、当時の日本人があこがれた海外の品が、中国の華やかな染付の磁器だったからだという。

日本遺産のストーリーによれば、有田はまもなく佐賀藩の主導によって磁器専門の産地となった。

九州陶磁文化館は、磁器の誕生から数十年後に有田の磁器づくりが飛躍的に進歩したと説明する。中国の技術を取り入れて改良を加え、日本で初めての色絵磁器を生み出し、成形や絵付けの技術を高めて、中国の磁器に迫る品質の製品を作れるようになった。

輸出の時代

17世紀中頃、中国では明から清への王朝の交代に伴う内乱などが起こり、中国の磁器の世界への輸出量が激減した。中国の磁器を大切な貿易品としていたオランダの商人は、代わりの磁器を探した。九州陶磁文化館によれば、そこで選ばれたのが、すでに中国の磁器に迫る品質になっていた有田焼だった。

肥前の磁器の一部は、長崎を経由して東南アジアやヨーロッパへ輸出された。日本遺産のストーリーは、それがヨーロッパの王侯貴族を魅了し、マイセンなどの磁器づくりに大きな影響を与えたとしている。学芸員も、オランダ東インド会社によってヨーロッパに運ばれた有田焼が、宮殿などの装飾品として絶大な人気を得たと説明している。

中国からの輸入の激減は、国内のデザインも変えた。学芸員によれば、17世紀中頃から日本独特のデザインが広まっていった。そして17世紀後半、肥前の磁器は「柿右衛門様式」と「鍋島様式」という双璧を完成させたと九州陶磁文化館は説明する。

濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地をもつ柿右衛門様式は、ヨーロッパの王侯貴族や日本の大名家などに向けた高級品として、民間の窯で作られた。鍋島様式は、将軍家への献上を目的として、佐賀藩直営の窯で作られた。

有田の磁器は、10キロメートルほど離れた伊万里の港から積み出されたため、「伊万里」とも呼ばれた。学芸員によれば、今は産地ごとの呼び名を使うのが基本になっている。九州陶磁文化館によると、輸出の時代は約100年続き、有田の磁器産業は大きく発展した。

海外への輸出が衰えると、肥前の磁器の産地は、町人の文化が栄えていた国内へと市場を移していったと九州陶磁文化館は説明する。幕末の開港の前夜には、有田の商人たちが再び海外への輸出を始めた。

有田で始まった技術は、ほかの土地にも広がった。日本遺産のストーリーによれば、各地で新たな陶石が見つかったのち、三川内や波佐見、伊万里、嬉野でも磁器づくりが発展した。それぞれの産地は同じ型の登り窯や共通の道具を使いながら、互いに技術を競って独自の個性を育てていった。

訪れられる場所

泉山磁石場*(有田町)。泉山磁石場跡は、有田町・武雄市・嬉野市にある初期の窯跡5か所とともに、1980年に「肥前磁器窯跡」として国の史跡に指定された。

有田の解説文によれば、磁石場は1995年ごろまで使われていた。今の有田焼の大半には、熊本県の天草の陶石が使われている。

天狗谷窯跡*(有田町)。佐賀県文化課の職員は、有田が磁器を中心に作るようになった最初のころの窯跡で、金ヶ江三兵衛ゆかりの窯だったとも言われると紹介している。

発掘では少なくとも4基の登り窯が確認されている。ここで見られる登り窯は焼成室21室、全長70メートル、高低差21メートルで、当時の最大規模だという。

有田内山の町並み*。大通り沿いを中心とする約2キロメートルの範囲が、1991年に佐賀県で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。

佐賀県立九州陶磁文化館*(有田町)。肥前をはじめ九州各地の陶磁器を約3万点収蔵・展示するやきものの専門の博物館で、かつてヨーロッパに渡り、ふるさとに里帰りした肥前の磁器も展示されている。

ゴールデンウィークの4月29日から5月5日に開かれる有田陶器市は、100年以上の歴史をもつ。訪れる前に、開館時間や最新の情報を博物館や有田町の公式サイトで確かめてほしい。

出典

  1. 有田焼の歴史(常設展示)Kyushu Ceramic Museum (Saga Prefecture)
  2. 日本遺産巡り#37(肥前)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal)
  3. 肥前磁器窯跡(天狗谷・山辺田・原明・百間・不動山窯跡、泉山磁石場跡)Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
  4. 日本磁器のふるさと 肥前 〜百花繚乱のやきもの散歩〜(日本遺産ストーリー)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal)
  5. 佐賀県有田町が応援するふるさと名物 有田焼 ~400年の歴史を、未来へ繋ぐ~Arita Town, Saga Prefecture (佐賀県有田町; document published on the SME Agency's Mirasapo Plus site)
  6. 有田焼、四百年。(アリタノヒビキ)Arita Tourism Association (有田観光協会), feature written by Araoka Yayoi (荒岡弥生)
  7. 泉山磁石場(地域観光資源の多言語解説文データベース)Arita Inbound Multilingual Commentary Council (有田インバウンド多言語解説整備協議会; text in the Japan Tourism Agency multilingual commentary database)