Japan Through Time

愛媛県 · 1895年 · 近代 · 明治時代 · 現代

Masaoka Shiki and Natsume Sōseki: A Meiji Summer in Matsuyama

正岡子規と夏目漱石―明治の松山

1895年、日清戦争の従軍から病を得て帰郷した俳人・正岡子規は、英語教師として松山に来ていた親友・夏目漱石の下宿で52日間を共に過ごした。

約5分 · 出典 10件

白黒写真。左を向いた横顔の男性。頭を丸め、口ひげがあり、黒っぽい着物の上に厚手の上着をはおっている。背景は無地
横顔の正岡子規。National Diet Library, Portraits of Modern Japanese Historical Figures · Public domain (out of copyright; free reuse under NDL terms) · 出典

1895年(明治28年)4月9日、東京から来た若い英語教師・夏目金之助が、松山の中学校に着任した。のちの小説家・夏目漱石である。数か月後、松山生まれの俳人で漱石の親友だった正岡子規が、病気の療養のために帰郷し、漱石の下宿に移り住んだ。

二人は「愚陀佛庵」と呼ばれた家で52日間を共に過ごした。松山市は、ここを漱石と子規が共に暮らした唯一の場所としている。この記事では、東京での学生時代から松山でのこの夏まで、そしてその後二人がそれぞれ何を書いたのかをたどる。

東京の二人の学生

子規は1867年(慶応3年9月17日、旧暦)、現在の松山市花園町に生まれた。国立国会図書館によれば、父は松山藩士である。1883年(明治16年)に上京し、はじめは政治家を志したが、やがて文学の道に転じた。

漱石(本名・金之助)は同じ年、江戸の、現在の東京都新宿区にあたる地に生まれた。新宿区立漱石山房記念館によれば、漱石は第一高等中学校時代に子規と出会って俳句の手ほどきを受け、子規が亡くなるまで深い友情で結ばれていた。

松山市によれば、二人は21歳頃から親しくなり、共通の趣味である寄席の話で意気投合した。子規は詩文集「七草集」を作って漱石に批評を求め、これに刺激を受けた漱石は、漢詩文の紀行「木屑録」を作って今度は子規に批評を求めた。英語だけでなく漢詩文にも優れた漱石の才能に驚いた子規は、漱石を「畏友」と認めるようになった。

1889年(明治22年)5月、子規は大量に喀血し、結核と診断された。鳴いて血を吐くといわれる「ほととぎす」の句を数多く作った子規は、以後、「ほととぎす」を意味する「子規」の号を使うようになる。

漱石は子規を励ます句を送った。松山市は、これが現存する漱石の最初の俳句だとしている。

漱石は1893年(明治26年)に帝国大学の英文科を卒業した。子規は大学を中退し、1892年(明治25年)に日本新聞社に入社した。同じ年に俳句論「獺祭書屋俳話」の連載を始め、注目を集めた。

1895年の夏

漱石が英語教師として赴任したのは、愛媛県尋常中学校(松山市の説明では松山中学)である。着任から1か月後、漱石は友人への手紙で、前の年に改築された道後温泉本館を大いに気に入った様子を書き送っている。

一方の子規は、日清戦争に新聞の従軍記者として赴き、帰りの船で大量に喀血した。神戸・須磨での療養の後、8月に松山へ帰郷する。愛媛大学のシンポジウムの案内によれば、すでに松山に実家のなかった子規は、漱石の下宿で52日を過ごすことになった。

この下宿は、漱石の俳号「愚陀仏」にちなんで「愚陀佛庵」と呼ばれる。漱石自身も「愚陀佛は主人の名なり冬籠」と詠んでいる。

愚陀佛庵の52日

松山市によれば、子規は地元の俳句結社「松風会」の仲間と連日句会を開いた。市は松風会を全国で初めての子規派の地方結社とし、当初の会員は松山高等小学校の教員たちだったとしている。やがて漱石もその輪に加わり、子規から熱心に俳句を学ぶようになった。

二人は穏やかな時間も過ごした。道後のあたりを散策し、大街道の芝居小屋で狂言を観た。子規や子規の弟子・高浜虚子と道後温泉に出かけたこともある。

子規はこの滞在中に、「俳句は文学の一部なり」で始まる俳句の入門書「俳諧大要」を書き始めた。国立国会図書館は、その連載を1895年から、本としての刊行を1899年としている。松山市は、二人が「新しい日本の文学を興そう」と誓い合ったといわれる、と紹介している。

松山市は、この夏を漱石の転機とみている。市の説明では、散策の道すがら交わした文学論や俳句が、英語教師・夏目金之助から文豪・夏目漱石へ変身するきっかけとなった。52日の後、東京へ戻る子規に、漱石は送別の席で友の無事を願う句を贈った。

松山のあとで

東京に戻った子規は、結核菌が脊椎を侵す脊椎カリエスと診断され、その後は長い病床生活を送った。それでも文学の仕事はかえって活発になり、1896年(明治29年)には三千以上の俳句を残した。1898年(明治31年)には「歌よみに与ふる書」を発表して、短歌の革新にも乗り出した。

子規は洋画の「写生」を取り入れることを説き、松山市によれば、その新しい俳句は若者を中心に全国へ広がった。また、松山の友人・柳原極堂が創刊した俳句雑誌「ほととぎす」を指導した。

漱石は赴任から1年後の1896年4月、熊本の第五高等学校へ移った。熊本でも熱心に俳句を作り、子規派の俳人として活躍した。1900年(明治33年)には文部省の命で英語研究のため2年間イギリスに留学し、異国から病床の親友へ長い手紙を送った。

1901年(明治34年)11月、子規は漱石への手紙に、自分はもうだめになってしまった、生きているのが苦しい、という思いをつづった。子規は1902年(明治35年)9月19日、脊椎カリエスのため34歳で亡くなった。イギリスで訃報を受けた漱石は、句を詠んで親友の死を悼んだ。

帰国した漱石は、虚子に勧められて「吾輩は猫である」を書き、これが評判となって作家の道を歩み始めた。1906年(明治39年)には、やはり虚子のすすめで「ほととぎす」に「坊っちゃん」を発表した。

小説の舞台は松山らしき町で、作中の温泉は道後温泉だといわれる。漱石は1907年(明治40年)に東京朝日新聞社に専属作家として入社し、1916年(大正5年)に49歳で亡くなった。

訪れられる場所

松山市立子規記念博物館は道後公園にある。常設展示は「人間正岡子規」をテーマに子規の生涯をたどり、「二人の文豪」「名作『坊っちゃん』と松山」「子規とベースボール」などのコーナーがある。

3階の展示室には、復元された愚陀佛庵の1階がある。開館時間や入館料は公式サイトで確認してほしい。

愚陀佛庵は戦災で焼失し、1982年(昭和57年)に萬翠荘の裏、城山のふもとに復元されたが、2010年(平成22年)7月の大雨で倒壊した。松山市は、子規・極堂・虚子の母校である番町小学校のプール跡地に愚陀佛庵を再建し、2026年(令和8年)7月24日に開館した。

木造2階建ての建物は当時の姿をできる限り再現したもので、隣の母屋ガイダンス棟には漱石と子規についての展示がある。訪れる前に公式サイトで確認してほしい。

出典

  1. 夏目漱石と『坊っちゃん』Matsuyama City
  2. 正岡子規についてMatsuyama Municipal Shiki Memorial Museum
  3. 正岡子規|近代日本人の肖像National Diet Library
  4. 漱石の生涯(新宿区立漱石山房記念館)Shinjuku City Natsume Sōseki Memorial Museum (新宿区立漱石山房記念館)
  5. 展示紹介(松山市立子規記念博物館)Matsuyama Municipal Shiki Memorial Museum (松山市立子規記念博物館)
  6. 子規・漱石生誕150年記念事業 実施報告書(P4-5)Matsuyama City (文化・ことば課)
  7. 『愚陀佛庵』の再建について(整備方針案)Matsuyama City
  8. 『愚陀佛庵』の再建Matsuyama City (文化・ことば課)
  9. 愚陀仏庵再建記念シンポジウム<愚陀仏庵時代>の子規と漱石(案内)Ehime University Research Center for Haiku and Calligraphy Culture (愛媛大学俳句・書文化研究センター)
  10. 愚陀佛庵 公式サイトGudabutsu-an (Matsuyama City facility; designated manager コンソーシアム番町)