宮崎県南部の飫肥には、江戸時代の城下町の町割りが残っている。文化庁によれば、飫肥は伊東家5万1千石の城下町で、こけむした石垣、大手門、長屋門などの門や長屋塀が、さまざまな植栽や木立ちに覆われ、武家屋敷の名残をしのばせている。
1977年(昭和52年)、飫肥の武家町は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。今の日南市は、九州で最初の選定だったとしている。この記事では、伊東氏が飫肥に入るまでの道のり、城下町の町割り、そしてそれを守ってきた人々の取り組みをたどる。
伊東氏と飫肥をめぐる長い争い
飫肥は古い地名である。日南市教育委員会によれば、平安時代の『倭名類聚抄』に宮崎郡飫肥郷として名が見えることから、古くから開発が進んだ場所だったと考えられる。
伊東氏は伊豆国伊東荘を本貫地とする一族である。文化庁の解説では、鎌倉時代に日向国の地頭職を与えられ、南北朝期には足利尊氏に仕えて日向国都於郡を与えられた。一族は日向に下り、今の西都市に都於郡城を築いて本拠とした。
伊東氏は都於郡を拠点に日向中部に勢力を広げ、日向への進出をめざす薩摩の島津氏との対立が激しくなった。日南市教育委員会によれば、両氏は飫肥をめぐってしばしば争った。文化庁は、伊東氏が16世紀後半に一時、飫肥城の攻略に成功したとしている。
しかし、その後形勢は変わる。元亀3年(1572)の木崎原の戦いで伊東氏は島津氏に大敗し、天正5年(1577)には大友氏を頼って豊後へ退き、日向は島津氏の支配下に入った。
秀吉のもとでの再出発
伊東氏の復活は、天下の動きの中で訪れた。天正15年(1587)、豊臣秀吉は大友氏の求めに応じて大軍を九州に送り、島津氏を降した。文化庁によれば、その結果、伊東氏に飫肥が、島津氏に佐土原と諸県郡が与えられた。
日南市教育委員会は、秀吉の九州攻めで案内役を務めた伊東祐兵が、その功によって飫肥の地を与えられたと説明している。
天正16年(1588)、祐兵は初代藩主として飫肥城に入り、城下の建設にとりかかった。祐兵はまた、伊東氏の菩提寺として臨済宗の報恩寺を創建した。
報恩寺は明治5年(1872)に廃絶したが、高さ15mほどの飫肥石の岩盤に三連の石橋などを配したその庭園は、今は国の登録記念物になっている。
日南市教育委員会によれば、伊東氏はこれ以後、幕末まで一度の改易もなく飫肥を治めた。飫肥城の施設を管理する飫肥城下町保存会は、明治4年の廃藩まで、伊東家14代の城主が飫肥を本拠としたとしている。
城下町の町割り
文化庁によれば、飫肥の街区は江戸時代初期に完成した。以来、小規模な城下町として、侍町と町人町が城跡を中心にまとまっている。
日南市は、町割りをさらに詳しく説明している。城下は酒谷川に三方を囲まれ、正方形に近い地割りになっている。飫肥城に近い方から、上級家臣、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷が配置されていた。
日南市教育委員会は、承応年間(1652〜1655)の飫肥城下絵図に見られる屋敷割りが、今の地割りとほとんど一致するとしている。
武家屋敷は、格式に応じて門を構え、飫肥石や玉石の石垣の上にお茶などの生垣をめぐらせている。日南市によれば、街路の幅はほとんど当時のまま残り、街路に面した石垣、生垣、門などもそのまま保存されている。
飫肥石は、シラスが固まってできた溶結凝灰岩である。文化庁は、石垣の上を生垣とする造りは飫肥藩の武家屋敷に広く見られ、その多くが今に伝わっているとしている。
飫肥城下町保存会によれば、石垣の積み方もさまざまで、石をすき間なく組み合わせて積む「飫肥積み」という飫肥独特の積み方も見られる。
上級藩士が住んだ十文字地区にある旧伊東伝左衛門家も、飫肥石の石垣の上に生垣をめぐらせた屋敷である。文化庁によれば、この伊東氏は藩主の一族で、代々家老を務めた。枯滝の石組みや石の反橋などを配した庭園は登録記念物で、城下の上級藩士の庭園の様子をよく伝えている。
藩の学び
天保2年(1831)、藩は藩校の振徳堂を設けた。高さ2m以上の石垣に囲まれた敷地に、長屋門と主屋が保存されている。
国立国会図書館によれば、1855年に飫肥藩士の子として生まれた外交官の小村寿太郎は、振徳堂で学んだのち、藩から送られて大学南校(のちの東京大学)に進んだ。1875年には文部省の最初の海外留学生の一人に選ばれ、ハーバード大学に入学している。
豫章館は、明治2年(1869)に藩主伊東家の住まいとして造られた。飫肥城下町保存会は、飫肥城下で最も格式のある武家屋敷としており、庭園は枯山水式である。
町を守る
日南市は、1970年代の取り組みを記録している。昭和49年から54年(1974〜1979)にかけて、飫肥城の復元事業が行われた。
昭和51年(1976)には保存地区の決定と保存条例の議決が行われ、昭和52年(1977)5月18日、国の選定を受けた。
選定の理由は、「地方における小規模な城下町の典型的なものとして侍屋敷の歴史的風致をよくあらわし、わが国にとってもその価値は高い」というものだった。保存地区の面積は約19.8haである。
日南市が作成した2026年5月8日付けの保存地区の資料によれば、伝統的建造物は建築物14件と、石垣や門などの工作物128件で、樹木や生垣などの環境物件は23件である。
日南市教育委員会が2021年に住民向けに発行した資料は、江戸時代から続く町並みは偶然に「残った」のではないと住民に語りかけている。先人や今を生きる人々の努力で守られてきた、というのである。
訪れられる場所
飫肥城の大手門と城跡も保存地区の中にある。飫肥城歴史資料館では、伊東家や家臣に伝えられた甲冑・刀剣・古文書など、飫肥藩ゆかりの資料約220点を展示・保管している。
松尾の丸は、江戸時代初期の書院造りの御殿として、時代考証のうえ1979年に建てられた建物で、江戸時代から残る建物ではない。
豫章館とその庭園、旧藩校振徳堂は見学できる施設で、旧伊東伝左衛門家の庭園も保存地区の中にある。生垣と石垣の間の通りを歩けば、ここで紹介した町割りを実際に感じられる。
城下町の外、酒谷川の右岸には、報恩寺の跡に建つ神社に旧報恩寺庭園が残っている。開館時間などは、出かける前に日南市や飫肥城下町保存会の公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 日南市飫肥Agency for Cultural Affairs (National Cultural Heritage Database)
- 日南市飫肥伝統的建造物群保存地区Nichinan City
- 日南市飫肥伝統的建造物群保存地区の町並み保存についてNichinan City Board of Education (Lifelong Learning Section, Cultural Properties)
- 日南市飫肥(宮崎県)(重要伝統的建造物群保存地区の紹介資料)Nichinan City (prepared by the city; published on the Agency for Cultural Affairs website)
- 都於郡城跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 穆佐城跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 旧報恩寺庭園Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 旧伊東伝左衛門庭園Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- KOMURA Jutaro (Portraits of Modern Japanese Historical Figures)National Diet Library
- 飫肥藩主伊東氏Obi Castle Town Preservation Society (general incorporated foundation)
- 石垣のまち"飫肥"Obi Castle Town Preservation Society (general incorporated foundation)
- 飫肥城歴史資料館Obi Castle Town Preservation Society (general incorporated foundation)
- 豫章館Obi Castle Town Preservation Society (general incorporated foundation)
- 旧藩校振徳堂Obi Castle Town Preservation Society (general incorporated foundation)
- 松尾の丸Obi Castle Town Preservation Society (general incorporated foundation)
