広島への投下から3日後の1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、2発目の原子爆弾が長崎の上空で炸裂した。爆発したのは、市の北部・浦上の上空だった。
この記事では、原爆を積んだ爆撃機が小倉から長崎へ向かった経緯、長崎市が伝える浦上の被害、2016年に国の史跡となった被爆の遺構、そして被爆者の体験がどのように受け継がれているかをたどる。
小倉から長崎へ
長崎市によれば、原爆は8月6日にテニアン島で組み立てられた。8月8日、アメリカ陸軍の在グアム第20航空司令部の野戦命令17号は、小倉を第1目標、長崎を第2目標として、翌9日に投下することを命じた。
長崎市は、B29「ボックス・カー」に同乗した原爆取扱責任者フレデリック・アシュワースの記録にもとづいて、その行動を紹介している(ほかの資料とは時刻に多少の差があるとしている)。機は日本時間の午前2時47分にテニアンを離陸した。
9時44分に小倉の攻撃始点に着き、3回の爆撃航程を試みたが目標を目で確認できず、小倉上空で45分を費やしたのち長崎へ向かった。長崎市は、小倉では焼夷弾による煙のため投下を断念したとしている。
長崎の上空も雲に覆われていた。長崎市が引用する機長チャールズ・スウィーニーの手記によれば、燃料は爆撃航程1回分しか残っておらず、スウィーニーはレーダーによる投下もやむをえないと考えていた。投下の直前、爆撃手は雲の切れ間から、三菱のグラウンドと三菱の製鋼所・兵器製作所のあいだの市街の一部を見つけ、原爆は目視で投下された。
浦上の朝
市の北部の浦上には、軍需工場が多かった。8月9日は快晴で風もない朝で、工場で働く人や動員学徒、女子挺身隊の人々が、汽車や電車に乗って続々と浦上に集まっていた。
午前7時48分に警戒警報、7時50分に空襲警報が出されたが、敵機は見えなかった。8時30分に空襲警報が解除され、市民の多くは防空壕から出た。10時52分ごろ、B29が2機、島原半島の北部の上空を経て市内に入ってきた。
原爆は、松山町171番地のテニスコートの上空で爆発した。目標とされた地帯から、およそ500〜600メートル北にそれた地点である。爆発した高さにはいくつかの推定値があるが、長崎市は、503メートル(誤差±10メートル)を信頼度の高い数値としている。
長崎の原爆はプルトニウムを使い、まわりの火薬で圧縮して爆発させる方式だった。これに対して広島の原爆は、ウランを使う「砲身」方式だった。長崎市は、長崎の原爆のエネルギーをTNT火薬22キロトン(のちの計算では21キロトン)と推定し、そのうち約35%が熱線、約50%が爆風、約15%が放射線だったとしている。
浦上の被害
長崎市が掲載している長崎県防空本部の調査によれば、爆心地から1キロ以内では、人も動物も強い爆風と熱でほとんどが即死し、建物は粉々になった。2キロ以内では、一部の人が即死し、大部分の人が重い傷や軽い傷を負い、建物の約80%が倒れて、その大部分が焼けた。
地形も被害の大きさを左右した。市の中央を縦に走る金比羅山の尾根や市の東部の丘陵の、爆心地と反対側の斜面では、爆心地から2〜5キロと比較的近くても、被害は軽かった。これに対し、西浦上の方面では、爆心地から5キロ以上離れた山の上でも一部が焼けた。
長崎市によれば、衣服に覆われていない肌のやけどは、爆心地から約4キロまで及んだ。約1.2キロ以内で遮るもののなかった人は、命にかかわるやけどを負った。放射線は1キロ以内では致命的で、2キロ以内でも体に重大な影響を与える量だったため、熱線や爆風で傷を負わなかった人までが次々に倒れていった。
爆心地から約500メートルの浦上天主堂は、浦上のカトリック信徒を中心に、30年をかけて赤れんがを積み上げ、1925年(大正14年)に完成させた聖堂だった。原爆でドームは一瞬にして落ち、わずかな壁を残して崩れ、夜には炎上した。2人の神父と十数人の信徒が、ここで亡くなった。
爆心地の西約500メートルの城山国民学校は、爆心地にもっとも近い国民学校だった。その朝、学校には、学校の職員のほか、校舎に移ってきていた軍需工場の事務所の人々や動員学徒など152人がおり、そのうち132人が亡くなった。学籍簿が焼けたため児童の数は分かっていないが、長崎市は約1,500人と推定し、そのうち1,400人あまりが家庭で亡くなったとしている。
爆心地の南東約700メートルにあった長崎医科大学では、教職員と学生あわせて890人あまりが亡くなり、建物の大部分が倒れるか焼けた。
亡くなった人の数
解釈が分かれる
爆心地の付近はほとんど全滅の状態で、町内会長や隣組長などの多くも死亡または行方不明となったため、正確な死傷者の数を調べることは難しかった。長崎市は、1950年7月に発表された長崎市原爆資料保存委員会の報告にもとづき、1945年12月末までに7万3,884人が亡くなり、7万4,909人が負傷したと推定している。長崎市は、これを今日の通説としている。原爆が落とされる直前の人口は、21万人前後と推定されている。文化庁は、その年のうちに約7万4千人が亡くなったと言われているとしている。
長崎原爆遺跡
2016年(平成28年)10月3日、5つの場所がまとめて「長崎原爆遺跡」として国の史跡に指定された。文化庁は、第二次世界大戦末期の原爆投下という歴史的事実と、核兵器の被害や戦争の悲惨さを伝える遺跡だとしている。
その一つが爆心地である。正確な位置は被爆直後から研究が続けられ、研究が進むにつれて少しずつ見直されてきたが、現在のどの推定による爆心地も、平和公園の祈りのゾーン(通称、爆心地公園)の中に収まっている。
ここには被爆当時の地層が残されている。1948年には、爆心地で最初の平和宣言が行われた。
旧城山国民学校校舎では、北側の校舎のうち階段の部分が残っている。骨組みのコンクリートに埋め込まれていた木れんがは焼けたまま残り、高熱の火災の被害を示すものとして知られている。
浦上天主堂の鐘楼のドームの一つは、天主堂の北側の崖の下を流れる小川まで滑り落ち、今もそこにある。直径は5.5メートルで、重さは約50トンと言われている。天主堂は1958年に解体され、翌年再建されたため、長崎市はこの鐘楼を、天主堂の被爆の事実を伝える貴重な遺構としている。
旧長崎医科大学の石造りの門柱の一つは、柱の部分が台から9センチずれ、今も傾いたまま立っている。爆心地の南東約800メートルの山王神社では、二の鳥居の片方の柱が爆風で倒れたが、もう片方の柱は1本だけで立ち続けている。その柱の爆心地に向いた面は、熱線で表面がはがれている。
記憶を受け継ぐ
長崎市は、被爆の惨状を伝える資料がしだいに失われていくなか、被爆から4年後の1949年に資料の収集と展示を始めた。その後、被爆者やその家族から多くの遺品や資料が寄せられてきた。1996年4月には、それまでの長崎国際文化会館を建て替えて、長崎原爆資料館が開館した。
資料館は、被爆の惨状とともに、原爆が投下されるに至った経過や核兵器開発の歴史を紹介しており、展示の説明は日本語・英語・中国語・韓国語で書かれている。資料館は、被爆の実相を伝え、核兵器のない世界の実現に向けて平和を発信し続けていくとしている。
被爆者が高齢になり、本人から直接体験を聞ける機会は少なくなっている。長崎市は2014年度と2015年度に、被爆者の家族を「家族証言者」として募集して体験の継承を支え、2016年度からは、家族以外で被爆者と深い交流のある人も「交流証言者」として募集している。
訪れられる場所
長崎原爆資料館* リニューアルが予定されているため、開館時間や料金、変更の有無は公式サイトで確認してほしい。
長崎原爆遺跡(国指定史跡)* 松山町の爆心地公園にある爆心地(路面電車の「平和公園」電停の近く)、城山小学校内の旧城山国民学校校舎、カトリック浦上教会内の浦上天主堂旧鐘楼、長崎大学坂本キャンパス内の旧長崎医科大学門柱、山王神社の参道にある、爆風で一本柱となった二の鳥居。
出典
- 第2 原子爆弾の投下と被害状況Nagasaki City
- 原爆投下の指令Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 原爆の威力Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 国指定史跡「長崎原爆遺跡」Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 原爆搭載機の進入経路と投弾Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 11時2分(原爆の惨状)Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 8月9日(原爆の惨状)Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 浦上天主堂(被災写真)Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 城山国民学校(被災写真)Nagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 原子爆弾とはNagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 原爆資料館Nagasaki City (Nagasaki Peace website; Nagasaki Atomic Bomb Museum)
- 開館30周年特別展「閃きのあとー長崎原爆資料館の軌跡」Nagasaki City (Nagasaki Peace website; Nagasaki Atomic Bomb Museum)
- 家族・交流証言 募集についてNagasaki City (Nagasaki Peace website)
- 長崎原爆遺跡(文化遺産オンライン)Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
