錦帯橋は、山口県東部の岩国市を流れる錦川に架かる橋である。5つの木の橋と4つの石の橋脚からなり、1922年に国の名勝に指定された。
最初の橋は、岩国の第3代領主・吉川広嘉が1673年(延宝元年)に架けた。それ以来、橋は何度も解体されては架け替えられ、洪水で2度流されている。この記事では、錦帯橋がどのように生まれ、どのように守られ、1950年に失われた後にどう再建されたのかをたどる。
川で二つに分かれた町
1600年の後、吉川家は周防国の東部(今の岩国市の一部など)を与えられた。山口県と岩国市が2018年にまとめた提案書によれば、吉川広家は1602年から城下町づくりに取りかかった。
広家は横山の山頂に城を築き、山を包むように流れる錦川を天然の外堀とした。横山には領主の居館や役所が置かれ、上級の家臣が住んだ。
川の対岸の錦見には、中下級の家臣の屋敷や町屋が置かれた。山頂の城は、一国一城令によって1615年に取り壊された。
二つに分かれた城下町を治めるには、両岸を結ぶ橋が必要だった。提案書は錦川を「暴れ川」と呼んでいる。
橋のあたりで川幅は約200メートルあり、洪水になると水位が7メートルを超えるほど上がった。当時の日本で一般的だった桁橋は、土砂や流木、川底がえぐられることによって、何度も流されていた。
第2代領主の吉川広正は、1657年(明暦3年)3月(旧暦)に架橋に取りかかり、9月に渡り初めを行った。しかしこの橋は、1659年(万治2年)5月の洪水で流された。
西湖の本から得た着想
第3代領主の広嘉は、洪水でも流されない橋を架けようとした。岩国側の資料によれば、広嘉は明から来た僧・独立から、中国の西湖を描いた本を手に入れた。
そこには、小島をつなぐアーチ橋が描かれていた。広嘉はこれを見て、川の中に小島のような頑丈な橋脚を造り、その間に橋を架けるという着想を得たと伝えられる。
工事は1673年に始まった。どんな洪水でも崩れない橋脚を造るため、川底から2〜2.7メートルの深さに松の生木で枠を組み、その上に石垣を積み上げた。橋脚の中には、栗石と粘土を混ぜて詰めた。
橋は1673年(延宝元年)10月1日(旧暦)の夜に完成し、3日から人々が渡り始めた。しかし翌1674年(延宝2年)5月28日、洪水で流されてしまう。再建工事は6月1日に始まり、11月3日に渡り初めが行われた。
細い木材で組んだアーチ
両端の2つの橋は木の柱で支えた桁橋で、中央の3つの橋には柱がない。文化庁のデータベースは、錦帯橋を弓なりの独特な形で知られる橋として説明している。
アーチに使われる木材は、長さ約6〜8メートル、断面は一辺170ミリあまりと、それほど太くない。提案書によれば、これらの材を、位置を約3分の1ずつずらしながら重ねていく。巻金やダボ、かすがいで結び、すき間にはくさびを打ち込むことで、重ねた材が一つの大きなアーチとして働くようにしている。
山口県は、中央の3つのアーチの構造を「世界に例を見ない」ものとしている。また県は、今の橋を4代目に数えている。
川底も橋の仕組みの一部である。国の指定の説明には、橋の上流と下流の川底に石が敷かれていることが書かれている。提案書によれば、これは川底がえぐられるのを防ぎ、橋脚を守るためのものである。
木の橋を守り続ける
木の橋は腐るため、錦帯橋は修理と架け替えを続ける必要があった。提案書によれば、1675年から、その費用として領内の武士から町人まで全員から負担が集められたと言われている。1678年からは「橋出米」という税として恒久的に集められるようになり、この仕組みは1871年の廃藩置県まで続いた。
橋は誰でも自由に渡れたわけではない。岩国市によれば、橋の両側には橋守が置かれ、通行は厳しく制限されていたと考えられている。
19世紀の初めごろには規制がだいぶゆるみ、橋を見に来る旅人が増えた。明治になって藩が廃止されると、橋守も廃止され、自由に渡れるようになった。
橋の架け方は、図面と、架け替えの仕事そのものを通して受け継がれた。江戸時代の図面が12枚残っており、最も古いものは1699年(元禄12年)の架け替えのときのものである。
近代以降の実物大の「型板」も残る。架け替えが繰り返されたことで、多くの大工が錦帯橋の架橋を経験した。
錦帯橋は名所としても知られるようになり、葛飾北斎(1831年)や歌川広重(1853年)の浮世絵にも描かれた。
1950年の流失と再建
提案書によれば、1674年の再建の後、錦帯橋は276年間流されなかった。しかし1950年(昭和25年)、キジア台風によって橋脚が崩れ、橋は流された。
市民は、それまでの洪水のときと同じように、橋の上に大きな桶を置いて水を満たし、その重さで流されるのを防ごうとした。しかし橋は、多くの市民が見守るなかで流されていった。
その日のうちに、岩国市議会は復旧・再建についての決議を行った。提案書は、鉄の橋などより安く簡単な近代的な造り方ではなく、昔ながらの工法で再建する道を選ばせたのは市民の思いだったと説明している。
工事は1951年に始まり、1953年に完了した。提案書によれば、約2年をかけ、延べ6万9千人の労力と1億2千万円の事業費が投じられた。
再建では、木のアーチは昔ながらの形を受け継いだ。一方で、安全のために橋脚は鉄筋コンクリートで造り直され、表面には元の橋脚の石が使われた。提案書は、これらを錦帯橋の歴史で最も大きな変更としている。
その後、5つの橋すべてを架け替える「平成の架替」が行われた。その時期を、世界遺産の提案書と推進協議会のリーフレットは2001年から2004年とし、岩国市のページは今の木造部分が2001年から2003年に架け替えられたとしている。
今の錦帯橋
錦帯橋は岩国市が所有・管理し、5年ごとの腐朽調査などで状態を確かめている。2021年には「錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観」が国の重要文化的景観に選ばれた。
2018年には、山口県と岩国市が、錦帯橋を日本の世界遺産暫定一覧表に載せるための提案書をまとめた。岩国市に事務局を置く協議会が、今も世界遺産登録をめざす取り組みを続けている。錦帯橋は世界遺産にはなっていない。
訪れられる場所
錦帯橋は歩いて渡ることができる。岩国市によれば、架け替えや維持の費用にあてるため、渡橋は有料になっている。訪れる前に、最新の情報を公式サイトで確認してほしい。
錦帯橋は、かつての城下町の二つの側、領主の居館や上級の家臣の屋敷があった横山と、対岸の錦見を結んでいる。2021年に選ばれた文化的景観は、錦帯橋と岩国の城下町をあわせたものである。
出典
- 錦帯橋Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 道路こぼればなし1Iwakuni City
- 山口まめ知識Yamaguchi Prefecture (Public Relations Division)
- 世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書 錦帯橋(平成30年12月)Yamaguchi Prefecture and Iwakuni City
- 錦帯橋 世界遺産をめざして(リーフレット)Kintaikyo World Cultural Heritage Registration Promotion Council (錦帯橋世界文化遺産登録推進協議会), Iwakuni City
