1613年、仙台藩の初代藩主・伊達政宗は、家臣の支倉常長らを海の向こうへ送り出した。一行はスペイン領のメキシコを経て、スペイン、さらにローマへと向かった。
仙台市博物館によれば、これは幕府も認めた正式な外交使節団だった。目的は二つあった。スペイン国王に会ってメキシコとの直接貿易の許可を得ること、そしてローマ教皇に会い、仙台領内で布教するフランシスコ会の修道士を送ってもらうよう頼むことである。
旅は7年に及んだ。その結末は失意に終わり、帰り着いた日本ではキリスト教が禁じられていた。それでも、常長が持ち帰った品々は今も仙台に残り、17世紀初めの日本人による驚くべき旅をたどる手がかりとなっている。
新しい城下町と広がる世界
政宗は1601年、本拠地を岩出山から仙台へ移した。文化庁の文化遺産オンラインによれば、政宗は同じ年、広瀬川に臨む青葉山の丘陵に仙台城本丸の築造を始めた。城のまわりには城下町を整え、新田の開発にも力を入れた。
それは仙台市博物館が「大航海時代」と呼ぶ時代でもあった。スペインは西回りの航路を開いてアメリカ大陸に広大な植民地を得、マニラを拠点にアジアとの貿易にも力を入れていた。カトリックの宣教師たちもアジアやアメリカ大陸に送られ、日本にはフランシスコ・ザビエルが1549年に初めてキリスト教を伝えていた。
博物館の年表によれば、支倉常長は1570年ごろの生まれである。1608年には政宗から仙台藩内に領地を与えられていた。常長とともに旅したのが、1574年にセビリアで生まれた宣教師ルイス・ソテロだった。
二つの大洋を越えて
船は慶長18年9月15日(旧暦)、現在の宮城県石巻市にある月浦を出航した。スペイン側の記録ではサン・フアン・バウティスタ号と呼ばれる船で、およそ180人が乗っていた。
船は偏西風と北太平洋海流に乗って太平洋を横断し、日本を出て3か月ほどでメキシコのアカプルコに着いた。仙台市博物館によれば、一行は記録に残る限りで、太平洋と大西洋の両方を横断した最初の日本人である。
乗っていた人の大部分はメキシコにとどまった。スペイン国王とローマ教皇あての手紙を託された常長ら約30人の使節団は、1614年6月にスペイン艦隊に便乗して大西洋を渡った。途中で嵐にあってキューバのハバナに寄り、10月にスペインに上陸した。
一行はソテロの故郷セビリアで大歓迎を受け、12月初めに首都マドリードに着いた。政宗はセビリア市にも手紙を送り、友好を結びたいこと、国王と教皇のもとへ使節を送るための力添えを願っていた。
マドリードとローマでの謁見
1615年1月30日、常長はスペイン国王フェリペ3世に会い、政宗の手紙を手渡した。2月17日には国王らの列席のもとで洗礼を受け、「フェリペ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」という洗礼名を得た。
歓迎は華やかだったが、マドリードに届く知らせは使節に不利なものだった。博物館によれば、ソテロと対立するビスカイノやイエズス会の側から、日本での禁教と弾圧、ソテロの事実と異なる報告、使節の本当の目的は貿易だけであること、政宗は日本の一領主にすぎないことなどが次々と伝えられた。
使節は国王から良い返事を得られないまま、8か月もマドリードに留まった。日本では、一行がメキシコに着いたころの慶長18年12月(西暦では1614年)に、幕府が全国にキリスト教の禁令を出していた。
教皇の力を借りようと、一行は1615年8月にローマへ向かった。10月下旬にローマに入り、29日には入市式の行進を行った。11月3日、常長は教皇パウロ5世に謁見した。
手渡された政宗の手紙は、金箔・銀箔を散らした紙に書かれ、日本語版とラテン語版の2通があった。フランシスコ会修道士の派遣と、メキシコとの貿易についてスペイン国王への仲立ちを願う内容で、博物館によれば今もヴァチカン図書館に保管されている。
ローマは一行を手厚くもてなした。常長は貴族の位を与えられ、常長を含む8人にローマ市の市民権が授けられた。羊皮紙に金泥で記された常長の公民権証書には、「SANDAI(仙台)」「VOXV(奥州)」「IDATE MASAMVNE(伊達政宗)」の文字が見える。
長い帰り道
教皇からは、教皇側とスペイン政府が協議するよう取り計らうという返答があった。使節はふたたびマドリードに戻ったが、そこに留まることは許されず、セビリアへ移された。常長とソテロは国王の返書を求めて、その後もセビリアに残った。
1617年7月4日、二人はついに返書を得られないままスペインを離れた。アカプルコからフィリピンのマニラへ渡り、常長はそこで2年を過ごした。
常長はソテロをマニラに残し、別の船で長崎に帰った。博物館の年表によれば、常長が仙台に着いて政宗に報告したのは元和6年8月24日(または26日)で、月浦を出てから7年が過ぎていた。
成果が限られた理由
宮城県は結果を簡潔にまとめている。通商についても宣教師の派遣についても確かな答えは得られず、使節がヨーロッパにいる間に幕府はすでにキリスト教を禁止していたため、当初の目的は果たせなかった。
仙台市博物館は、日本でキリシタンへの弾圧が厳しくなっているという情報が教皇のもとに届いていたと説明する。一行が帰国した1620年には、キリスト教は全国で禁止され、信者が次々と処刑される時代になっていた。
仙台藩も常長の帰国直後に領内にキリスト教の禁令を出し、信者の探索は領内全域に広がった。1624年には、ポルトガル人のイエズス会宣教師カルバリオ神父と仙台領内の信者たちが捕らえられ、広瀬川で水責めにより処刑された。博物館は、政宗も幕府の方針に従わざるをえなかったと述べている。
使節に関わった人びとも、この流れにのみ込まれた。常長は元和7年(1621年)ごろに52歳で亡くなったとみられる(支倉家の年譜では元和8年)。
ひそかに日本に入ったソテロは1624年に火刑に処された。1640年には常長の子・常頼が、弟と召使い3人がキリシタンであった責任を問われて処刑され、召使い3人も命を落とした。
博物館自身の評価は、両面に目を配ったものである。当時の日本でのキリスト教の立場や世界の植民地政策を考えれば、メキシコとの直接貿易とフランシスコ会修道士の派遣が実現しなかったのは、仕方のないことだったかもしれないという。しかし、世界をまたにかけたスペインを相手に、外交使節として堂々と交渉したことは高く評価されるべきだとしている。
隠された品々と再発見
厳しい禁教のもと、常長が持ち帰った品々は、子の常頼の代にキリシタンに関わる物として藩に没収され、表に出ないよう保管された。博物館によれば、その後およそ250年のあいだ、使節の存在は忘れられた。
再び光が当たったのは1873年である。明治政府が欧米に送った岩倉使節団が、訪問先のヴェネツィアで常長の書状を見つけた。
現在、24件47点の資料が「慶長遣欧使節関係資料」としてまとめられている。2001年には歴史資料として初めて国宝に指定された。2013年には、そのうち「ローマ市公民権証書」「支倉常長像」「ローマ教皇パウロ5世像」の3点がユネスコ「世界の記憶」に登録された。
「支倉常長像」は、ロザリオを手にした常長が十字架上のキリストに祈る姿を描いている。仙台市博物館によれば、日本に残る絵画の中で実在の日本人を描いた油絵としては最古の作品といえ、近年の研究ではローマで描かれたとみられている。
仙台を訪ねる
慶長遣欧使節関係資料は仙台市博物館が収蔵している。博物館は仙台城三の丸の跡に建ち、展示は季節ごとに入れ替わる。どの資料が展示されているかは、訪れる前に博物館の公式サイトで確かめてほしい。
仙台城跡は国の史跡で、文化庁によれば、城跡の主な区域は仙台市によって都市公園として整備されてきた。交通や利用の案内は公式サイトで確認してほしい。
出典
- 慶長遣欧使節関係資料Sendai City Museum
- 慶長遣欧使節Sendai City Museum
- 伊達政宗関係年表Sendai City Museum
- 主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(2)Sendai City Museum
- 主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(3)Sendai City Museum
- 主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(4)Sendai City Museum
- 主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(5)Sendai City Museum
- 主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(6)慶長遣欧使節関連年表Sendai City Museum
- 博物館の概要Sendai City Museum
- 常設展(2026年 秋の常設展)Sendai City Museum
- 指定文化財〈国宝〉慶長遣欧使節関係資料Miyagi Prefecture
- 仙台城跡(文化遺産オンライン)Agency for Cultural Affairs
