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Ichijōdani: The Rise and Burning of a Warring States Castle Town

一乗谷―戦国の城下町の繁栄と焼失

朝倉氏は約100年にわたり、一乗谷の細長い谷に築いた計画的な町から越前を治めた。町は1573年に焼かれ、1967年に発掘が始まるまで田畑の下に埋もれていた。

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斜面の上から見下ろした一乗谷の朝倉館跡。砂利を敷いた建物の跡、並んだ礎石、低い石垣、芝生が広がり、奥には木々に覆われた山と青空が見える
発掘・整備された一乗谷の朝倉館跡。建物の区画と礎石が示されている(2024年9月撮影)。掬茶, 2024-09-16 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International · 出典 · 縮小して掲載

今の福井市にある細長い谷あいで、朝倉氏は館と城下町を築き、5代にわたって越前国を治めた。文化庁によれば、京や奈良の文化人がもたらした文化がこの地で花開き、「北陸の小京都」とも呼ばれるほどの繁栄をみせた。

1573年、朝倉氏は織田信長に敗れ、町は焼かれた。その跡は田畑の下に埋もれ、1967年に発掘調査が始まるまで眠り続けた。この記事では、一乗谷の町の始まりから焼失、そして再発見までをたどる。

朝倉氏、越前へ

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館によれば、朝倉氏は但馬国朝倉庄(今の兵庫県北部)を名字の地とする武士である。朝倉広景が、越前の守護となった斯波氏に従い、1337年に越前に入った。

南北朝時代の戦いのなかで、広景の子の高景は越前の7か所の地頭職を得た。そのひとつ宇坂庄の中に、一乗谷がある。

解釈が分かれる

博物館は、一族の分家や寺社の創建などから、高景の子の氏景(1404年没)の時代の終わりには、朝倉氏が一乗谷から東郷にかけての地域に勢力の基盤を置いていたと推定している。

朝倉氏が越前一国を治めるようになったきっかけは、1467年に京都で始まった応仁の乱である。博物館の説明では、一乗谷の朝倉氏の初代に数えられる朝倉孝景は、はじめ西軍として京都で戦い、1468年に越前へ戻った。文明3年(1471)5月に将軍足利義政の御内書を得て東軍として兵を挙げ、1475年には越前一国を平定した。

文化庁のデータベースは、1471年に朝倉氏の当主が黒丸城から一乗谷へ居を移してから、5代103年にわたって一乗谷が朝倉氏の拠点だったとしている。

孝景は1481年に亡くなった。孝景は子と孫に17か条の家訓を残している。博物館によれば、その中には、家柄ではなく能力と忠節で人を登用すること、重臣を一乗谷に集めて住まわせること、質素倹約などが説かれている。

細長い谷の計画都市

文化庁の解説によれば、一乗谷は東西に山が迫り、北へ流れる一乗谷川に沿って帯状の狭い平地が続く土地である。文化庁は、こうした地形は守りやすく、そこに築かれた中世の拠点の典型的な例がこの遺跡だとしている。

発掘調査によって、町の南北に土塁の城戸(門)が設けられていたことが分かった。文化庁によれば、その間の長さ約1.7kmの「城戸ノ内」に、朝倉館をはじめ、武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に配置されていた。山のふもとには庭園を伴う館が並び、周りの山には城や見張り台が築かれていた。

博物館によれば、城下町は30m(100尺)を基準にして計画されていた。道には、守りのための折れ曲がり(矩折)やT字路、行き止まりが設けられていた。町人の家は、道に面して間口6〜9m、奥行12〜15mほどの区画に、隣り合って建てられていた。

寺院は40余りあった。発掘された家には、越前焼の大甕をいくつも並べた紺屋(染物屋)のほか、数珠師、塗壁師、鋳物師、桧物師の家もある。

ある一画では、火縄銃の部品や鉛の地金、300余りの鉛の弾丸がまとまって見つかっており、博物館は鉄砲に関わる職人頭の家だったと考えている。

城下の内と外の接点だった安波賀には、船着き場のある川湊があった。1498年には「越前の入江、唐人の在所」と呼ばれていた。博物館によれば、唐物(中国からの品物)の売買が盛んな流通の町だったようである。

博物館はまた、戦乱で荒れた京都から、多くの公家や僧侶、学者、芸能者が一乗谷に下ってきて、手厚くもてなされたと記している。

初代と同じ名の4代孝景の時代には、越前は一度も他国から攻め込まれず、博物館はこれを領国の全盛時代としている。農業・水産業・手工業も発展し、町並みや寺院、当主の館の整備も進んだとみられる。遺跡の展望所では、博物館が、1万人が暮らす大きな都市がここにあったことに思いをはせてほしいと呼びかけている。

義景と将軍候補、そして織田信長

5代で最後の当主となった朝倉義景は、殺害された将軍足利義輝の弟、足利義昭を迎え入れた。義昭は3年にわたって越前に滞在し、1567年に一乗谷へ移った。義景は義昭を、上城戸(南の城戸)の外にある安養寺に迎えた。

永禄11年(1568)3月、義景は尼寺の南陽寺で義昭をもてなし、糸桜を眺めながら歌会を催したと伝えられている。しかし義昭はその後、織田信長を頼って上洛し、将軍となった。

信長は朝倉氏に上洛して従うよう命じた。博物館によれば、朝倉氏はこれを拒んで国境の城を固め、本願寺や延暦寺と手を結んで信長に対抗した。こうして4年にわたる争いが続き、元亀の年号(1570〜1573年)にちなんで「元亀の争乱」と呼ばれる。

1573年の滅亡

1573年、義景は同盟する近江の浅井氏を救うために出陣した。しかし退却の途中、近江から敦賀へ向かう刀根坂で大敗した。義景は一乗谷に戻ったのち、いとこの朝倉景鏡の勧めで大野へ移った。

信長は府中の龍門寺に陣を置き、軍勢を送って一乗谷を破壊させた。博物館によれば、信長の先兵は8月18日から20日(旧暦)までの3日3晩にわたって町に火を放ち、谷の中の建物は一つ残らず焼かれた。

20日、義景は景鏡の兵に囲まれて自害した。享年41。

義景の母と子は景鏡に捕らえられ、府中の信長のもとへ引き渡されて、26日に今庄で命を奪われた。博物館は、これによって朝倉氏の嫡流は絶えたと記している。

博物館によれば、一乗谷が火の海となったとき、安波賀春日神社の社殿も焼失した。神官は御神体とともに甲斐国へ逃れたと伝えられ、社殿は1697年に福井藩主の松平氏によって再建された。

天正2年(1574)正月、一乗谷は一揆勢に囲まれて落城し、信長が据えた守護代の桂田(前波)長俊は敗れて死んだ。博物館は、一揆勢を、長年にわたる武士の越前支配に苦しめられた人びとと説明している。博物館によれば、1575年に信長が一時一乗谷に陣を置いたのが、城としての一乗谷の最後の記録である。

商人や寺社は、柴田勝家の北庄の城下へ移り、一乗町などの町ができた。一乗谷の大きな寺院のいくつかは北庄の城下の周りに移り、今に至っている。

田畑の下の町

文化庁によれば、焼かれた城下町は、町の形をほぼそのまま残して田畑の下に埋もれた。発掘調査は1967年に始まった。

1971年には278haが国の特別史跡に指定され、以来、2026年現在まで50年以上にわたって発掘調査と整備が続いている。1991年には遺跡内の4つの庭園が国の特別名勝に、2007年には出土品2,343点が国の重要文化財に指定された。

博物館は、長年の発掘調査によって、戦国時代の城下町の具体的な姿が日本で初めて明らかになったとしている。朝倉館跡の庭園は完全に土に埋もれており、発掘によって約450年ぶりに見つかった。

博物館は、義景の館跡を、全国で唯一発掘・整備された戦国大名の館跡と紹介している。敷地は約6,400㎡あった。

一乗谷を訪ねる

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館は2022年10月に開館した。約170万点の出土品をもとにした展示があり、朝倉当主の館の一部が原寸で再現されている。

谷の中では、朝倉館跡とその庭園、武家屋敷や道路などの町並みを復原した地区を見ることができる。復原された武家屋敷は、発掘された遺構の上に60cm土を盛り、当時の材料・道具・技術をよく検討したうえで建てられたものである。

北の下城戸には、高さ4m、長さ38mの土塁が残り、初代孝景の墓である英林塚もある。開館時間などは、出かける前に公式サイトで確かめてほしい。

出典

  1. 一乗谷朝倉氏遺跡Agency for Cultural Affairs
  2. 一乗谷朝倉氏遺跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
  3. 遺跡散策Fukui Prefectural Ichijodani Asakura Family Site Museum
  4. 朝倉氏の歴史Fukui Prefectural Ichijodani Asakura Family Site Museum
  5. 遺跡のご紹介Fukui Prefectural Ichijodani Asakura Family Site Museum
  6. ご利用案内・観覧料/展示案内Fukui Prefectural Ichijodani Asakura Family Site Museum