弘前城は慶長16年(1611年)に完成した、津軽藩(弘前藩)を治めた津軽氏の居城である。青森県によれば、その周りに生まれた城下町は、津軽地方の政治・経済・文化の中心として栄えた。
城の跡は今、弘前公園になっており、昔の町割りも一部にたどることができる。この記事では、津軽氏が力をつけた経緯、城と城下町のつくられ方、そして今に残るものを見ていく。
津軽氏の台頭
16世紀後半の津軽地方では、勢力争いが続いていた。青森県の年表によれば、当時は大浦為信と名乗っていた武将が、1567年に大浦城主となった。1578年には浪岡城主の北畠顕村を滅ぼしている。
青森県は、為信が南部氏から現在の津軽地方を切り取って独立したと説明している。1590年、豊臣秀吉によって全国が統一されるなかで、為信は津軽の、南部信直は南部の支配を秀吉から認められた。
この分かれ方は長く尾を引いた。津軽と南部は、江戸時代の約260年間、別々の藩の領地だった。青森県によれば、両家の関係は、為信の独立から戊辰戦争中の1868年の野辺地戦争まで良好ではなかった。
津軽氏の本拠は、初めから弘前にあったわけではない。1594年、県の年表で「津軽為信」と記される為信は、本拠を堀越城に移した。
堀越城は、のちの弘前城の南東約4キロメートルにある。現在、鰺ヶ沢町の種里城跡、堀越城跡、弘前城跡は、あわせて国の史跡「津軽氏城跡」として守られている。
新しい城と町づくり
青森県によれば、為信は慶長8年(1603年)、のちに弘前となる高岡の地に、町割りと新しい城の建設を計画した。その遺志は2代藩主の信枚に受け継がれ、信枚が築城に取りかかった。
城は、西に岩木川、東に土淵川を配した、細長い台地の端に位置する。築城には各地の廃城の資材が使われ、江戸の職人も大勢雇われた。県は、工事は2年間で完成したとしている。
新しい城は、当時としては大がかりなものだった。藩の石高はまだ4万7千石だったが、五層の天守をはじめ、郭や櫓、御殿、重臣の屋敷などは、有力な藩にふさわしい規模だった。
県の年表は、慶長16年(1611年)5月に城がほぼ完成し、城下に寺社や家臣団、商人が移ったと記している。寛永5年(1628年)には、高岡の名が弘前に改められた。
天守・櫓・城門
最初の天守は長くはもたなかった。信枚が建てた五層の天守は本丸の南西の隅にあったが、青森県によれば、寛永4年(1627年)9月に落雷で焼失したという。
今の天守は文化7年(1810年)のもので、本丸の南東の隅に建つ、銅板ぶきの3層3階の建物である。県は、幕府から「櫓を造営する」という名目で許可を得たものともいわれる、と説明しており、別のページでは本丸の隅櫓を改造したものとしている。
県によれば、こうした建物として東北地方に残る唯一のものである。このころには藩の規模も大きくなっていた。1808年、弘前藩は蝦夷地警備の功によって10万石に昇格している。
残っているのは天守だけではない。3つの隅櫓と5つの城門も残り、天守とあわせた9棟が国の重要文化財になっている。櫓と城門は1611年のものである。
櫓は、いざというときに弓矢などをしまい、また攻撃の拠点にもなる場所だったため、矢や鉄砲を放つ狭間や、石を落とす仕掛けがある。城門は、桝形とよばれる四角い囲いの中に建つ櫓門である。桝形は、敵がまっすぐ攻め込めないようにするためのものだった。
県は弘前城を、明治維新後の城の取り壊しや火災、戦火をくぐり抜けて残った、日本でも数少ない城の一つとしている。
城を囲む町
城下町は、南北に長いほぼ長方形の城を、自然の地形を生かして四方から囲むように配置された。今は搦手門(裏門)となっている北門(亀甲門)は、もとは弘前城の大手門(正門)だった。
その北側には、亀甲町という一筋の町人町をはさんで、いくつかの侍町が置かれた。これが「仲町」である。1978年、ここの約10.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
弘前市がまとめた資料によれば、この地区は昔の地割りをよく受け継いでいる。道沿いにはサワラの生垣が続き、門や板塀、前庭の木々が並び、その奥に木造の主屋が建つ。
寺にも、まとまった区画があった。1952年に城跡が国の史跡に指定されたとき、禅宗の33の寺が並ぶ長勝寺構と、最勝院の五重塔を含む新寺構もあわせて指定された。
藩から公園へ
1871年の廃藩置県で藩の時代は終わった。まず弘前県が生まれたが、同じ年の9月には青森県と改められ、県庁は青森に移った。1895年には弘前公園が開園し、1918年5月には初めての観桜会が開かれた。
城の建物や石垣には、今も手入れが欠かせない。弘前市は本丸の石垣を修理するため、2014〜2015年度に天守をそのまま本丸の中央へ約78メートル動かした。その後、2,185個の石を解体し、2021年6月から2024年12月にかけて積み直した。
2026年、市は天守を元の天守台に戻す工事を進めていた。あわせて、直径2メートル、長さ約35メートルの基礎杭4本などで天守台を耐震補強する工事も行っており、2026年8月末の時点でも続いていた。
弘前城と城下町を訪ねる
青森県は、弘前城跡を含む津軽氏城跡を「公開(一部有料)」としている。櫓や城門は外から見ることができる。
天守の内部は、2026年時点の市の予定では、2025年11月24日から2032年度まで公開を休止している。曳戻し工事は覆いを設けずに行うため、天守の外観や工事の様子は見ることができる。ただし2028年秋ごろからは、保存修理のため数年間、天守全体が覆われる予定である。
仲町では、移築・修理された4棟の武家住宅が公開されている。工事の予定や公開日は変わることがあるため、訪れる前に弘前市の公式サイトで確認してほしい。
出典
- 年表で見る青森県の歴史Aomori Prefecture
- 伝説・地名Aomori Prefecture
- 津軽氏城跡(種里城跡・堀越城跡・弘前城跡)Aomori Prefecture
- 弘前城 天守、二の丸辰巳櫓、二の丸未申櫓、二の丸丑寅櫓、二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、北の郭北門、三の丸東門Aomori Prefecture Board of Education, Cultural Properties Protection Division
- 弘前市仲町(青森県) 伝統的建造物群保存地区の概要Agency for Cultural Affairs (document prepared by Hirosaki City)
- 弘前城本丸石垣修理事業Hirosaki City
- 弘前城石垣修理 第27回E~弘前城天守曳戻しに向けて~Hirosaki City
