琵琶湖の西岸、今の滋賀県大津市の坂本の町の上に、比叡山がそびえる。この山にあるのが、天台宗の総本山・延暦寺である。
延暦寺によれば、延暦寺という一棟の建物があるわけではない。比叡山の1700ヘクタールの境内に点在する約100の堂塔の総称で、東の「東塔」、西の「西塔」、北の「横川」の3つの地域(三塔)に分かれている。
この記事では、8世紀に僧・最澄が開いてから、日本仏教の中心として歩んだ時代を経て、1571年に織田信長に焼き討ちされ、再建されるまでの延暦寺をたどる。
最澄と山上のお堂
延暦寺によれば、最澄は神護景雲元年(767、異説あり)に、琵琶湖西岸の三津(今の坂本)で生まれた。12歳で近江の国分寺の僧の弟子となり、延暦4年(785)に奈良の東大寺で具足戒を受けて、国に認められた正式な僧となった。
受戒から3か月ほどで奈良を離れ、比叡山に入って修行の生活を始めた。そして延暦7年(788)に一乗止観院を建て、薬師如来を刻んで本尊とした。このお堂が、のちの延暦寺の根本中堂である。
最澄は桓武天皇の援助を受けて唐に渡り、天台の教えを学んだ。延暦寺によれば、唐では禅や密教の教えも受け、延暦24年(805)に帰国した。
延暦25年(806)1月26日(旧暦)、朝廷は最澄の宗に、天台の教えを学ぶ者1名と密教を学ぶ者1名の、毎年2名の年分度者(国が認める僧)を認めた。天台宗はこの日を開宗の日としている。最澄は、すべての人が仏になれると説く『法華経』をよりどころとした。
最澄は弘仁13年(822)に亡くなった。その7日後、最澄が求め続けてきた、比叡山が独自に大乗の戒を授けることが朝廷から許された。最澄の没後、一乗止観院は天皇から「延暦寺」の名を賜った。
学びの山
最澄の後継者たちは寺を広げていった。延暦寺によれば、第3世の座主・円仁は横川を開き、東塔も整えた。
貞観8年(866)には、清和天皇から最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」の名が贈られた。延暦寺は、これを日本で初めての大師号としている。
平安時代の中ごろには、第18世の座主・良源がお堂の再建と整備を進めた。弟子の源信は『往生要集』を著し、延暦寺によれば、これがのちの日本の浄土教の発展の基礎となった。
平安時代の末から鎌倉時代のはじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった、のちの各宗派の開祖たちが比叡山で学んだ。延暦寺は、こうして比叡山がのちに「日本仏教の母山」と呼ばれるようになったと説明している。
山のふもと、坂本の日吉社は、延暦寺と深く結び付いて発展した。文化庁によれば、日吉社は平安時代に天台宗との習合によって延暦寺の守護神として発展した。
寺と門前の町
延暦寺は信仰の場だけではなかった。大津市歴史博物館は、延暦寺が多くの高僧を出し、仏教美術をはじめとする宗教文化を発信する一方で、多くの荘園を抱え、経済活動も活発だったと説明している。
門前町の坂本も、延暦寺とともに歩んだ。博物館によれば、室町時代の坂本では、運送業者の馬借・車借や、金融業者の土倉が活躍した。
延暦寺自身は、1200年余りの歴史の中で、武家をはじめとする権力者との衝突によって幾度も困難に遭ったと記している。そのたびに、最澄の教えを受け継ぐ人々と多くの人々の信仰に支えられてきたという。
1571年の焼き討ち
1570年代、比叡山は織田信長の戦いに巻き込まれていく。福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館によれば、信長の服従の命令を拒んだ越前の朝倉氏は、本願寺や延暦寺と連合して信長に対抗した。元亀元年(1570)、朝倉氏は近江の浅井氏や一向一揆と連合して坂本に兵を出し、比叡山を押さえた。
大津市歴史博物館によれば、元亀2年(1571)9月12日(旧暦)、信長は延暦寺に迫り、坂本をはじめ、日吉社や山上の諸堂を焼き払った。博物館は、信長に敵対した延暦寺がこうして壊滅的な痛手を負ったと記している。
福井県の博物館は、この焼き討ちを、前年に朝倉氏に協力した延暦寺と日吉社に対する見せしめだったと説明している。
文化庁によれば、中世を通じて仏教の施設や摂社が増えていた日吉社は、信長による焼き打ちで荒廃した。
焼き討ちの後、明智光秀が坂本城を築き、大津市歴史博物館によれば、坂本は武家の監視下に置かれた。
再建
延暦寺の復興は、豊臣秀吉の時代に本格化した。文化庁によれば、秀吉の寄進をきっかけに諸堂が再建された。大津市歴史博物館によれば、城も大津へ移り、坂本は門前町としての姿を整えていった。
日吉社も順次再建された。西本宮本殿は1586年、東本宮本殿は1595年の建物で、どちらも今は国宝である。
主な堂舎は16世紀から17世紀にかけて復興された。今の根本中堂について、文化庁は寛永17年(1640)の再建とし、延暦寺は徳川家光の命で寛永19年(1642)に完成したとしている。最澄を祀る浄土院の伝教大師御廟は寛文2〜6年(1662〜66)ごろの建立と考えられ、文殊楼は寛文8年(1668)の火災の後に再建された。
大津市歴史博物館によれば、江戸時代の坂本は、延暦寺5,000石の門前町だった。三塔から選ばれた三執行代と呼ばれる僧が行政のしくみの頂点に立ち、日吉社への参道には、延暦寺の僧の隠居所である「里坊」が建ち並んだ。
1994年(平成6年)、延暦寺は、京都市・宇治市・大津市にまたがる「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。滋賀県によれば、県内にある構成資産が比叡山延暦寺である。
訪れられる場所
延暦寺の発祥の地である東塔の中心は、総本堂の根本中堂である。延暦寺によれば、本尊の前には「不滅の法灯」が安置されている。
建物は国宝である。2026年現在、大改修の工事中なので、何を見られるかは延暦寺の公式サイトで確かめてほしい。
坂本から登る表参道の上には、東塔の入り口にあたる二重門の文殊楼が建つ。延暦寺によれば、東塔と坂本の間はケーブルカーで結ばれている。
大津市歴史博物館は、坂本が今も延暦寺・日吉社の門前町としての独特の雰囲気を伝えていると記している。日吉社(今の日吉大社)では、1586年と1595年の2つの本殿が国宝になっている。
博物館では、江戸時代後期の日吉社の参道を再現した模型が展示されており、里坊が建ち並び、建物が穴太衆積みの石垣で囲まれた様子を見ることができる。開館時間は、訪れる前にそれぞれの公式サイトで確認してほしい。
出典
- 歴史|延暦寺についてEnryakuji (Tendai head temple, official site)
- 滋賀の世界遺産Shiga Prefecture
- 比叡とその山麓(テーマ展示)Otsu City Museum of History
- 延暦寺 慈眼堂Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 日吉神社境内Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 朝倉氏の歴史Fukui Prefectural Ichijodani Asakura Family Site Museum
- 概要|境内案内Enryakuji (Tendai head temple, official site)
- 東塔(とうどう)|境内案内Enryakuji (Tendai head temple, official site)
- 根本中堂改修見学会|比叡山体験Enryakuji (Tendai head temple, official site)
- 延暦寺根本中堂Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
- 延暦寺文殊楼Shiga Prefecture (滋賀県; text in Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
- 延暦寺浄土院Shiga Prefecture (滋賀県; text in Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
- 日吉大社西本宮本殿及び拝殿 本殿Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
- 日吉大社東本宮本殿及び拝殿 本殿Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online, 国指定文化財等データベース)
