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東京都 · 中世 · 江戸時代

Edo: A City of About a Million and Its Popular Publishing

江戸―百万都市と町人の出版文化

江戸は太田道灌の城の下の小さな集落から将軍の都へと育ち、蔦屋重三郎らの版元が町人のための本や浮世絵を世に出した。

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本屋の店先を描いた多色刷りの木版画。蔦の葉の紋と「耕書堂」の文字が入った暗い色の暖簾の下で、男たちが棚や床に積まれた本を手に取っている。戸口では荷を背負った客がかがみ、書名を記した看板が下がり、店先には行灯が置かれている。上に「絵草紙店」とある
暖簾に「耕書堂」とある絵草紙店。葛飾北斎による1802年の多色刷り木版画。Katsushika Hokusai, 1802 · Wikimedia Commons (Rijksmuseum Amsterdam) · Creative Commons CC0 1.0 Universal Public Domain Dedication · 出典 · 縮小して掲載

東京のはじまりは、城の下の小さな集落だった江戸である。1590年に徳川家康が入ると江戸は急速に大きくなり、18世紀の初めには人口が約100万人に達したと推定されている。

この記事では、太田道灌の城から将軍の都へ、そして町人たちの本と浮世絵の世界へと、江戸の歩みをたどる。拠り所にするのは、内閣府、文化庁、東京都、国立国会図書館、東京国立博物館の資料である。

太田道灌の城

文化庁の資料によれば、江戸城は長禄元年(1457年)、太田道灌が江戸氏の館の跡に城を築き、江戸城と称したことに始まる。内閣府の報告書は、道灌を扇谷上杉氏の執事と説明している。

同じ報告書によれば、この城は軍事的には優れたつくりだった。しかし100年以上のちに家康が入ったときも石垣はなく、城下には茅葺きの家が10軒ほど並ぶだけだったという。ただし報告書は、近年、江戸はすでに関東の流通経済の要の地だったという指摘もあると付け加えている。

周りの土地の多くは低い湿地だった。報告書によれば、家康が入ったころの江戸城は道灌の時代からほとんど変わっておらず、最大の大名の居城にふさわしいものではなかった。

将軍の都

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は徳川家康に、三河・駿河・遠江から関東への国替えを命じた。家康は新しい領地の拠点を江戸に定め、8月1日(旧暦)に江戸に入ったと伝えられる。

家康は、低湿地の水を抜き、船で物資を運ぶための堀を掘らせ、その両岸に江戸で最初の町人の町ができた。東京都の年表も、1590年の項に家康の江戸城入城を記している。

慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。江戸はもはや一大名の城下町ではなくなり、全国の大名が江戸に住んで屋敷を構え、将軍直属の家臣たちも江戸に集まって住んだ。

大勢の武士の暮らしを支えるために商人や職人も集まり、人口は急速に増えた。内閣府の報告書によれば、1603年には海を埋め立てて市街地がつくられ、このときに日本橋が架けられたという。東京都の年表も、同じ年に日本橋が初めて架かったと記している。

城づくりは、全国の大名に工事を負担させながら数十年にわたって続いた。文化庁の資料によれば、慶長12年(1607年)に天守を含む本丸・西の丸の主要部が整い、寛永12年(1635年)に二の丸・三の丸、翌年には堀や石垣などの総構が完成した。

報告書は、こうしてできあがった江戸を、武家地・町人地・寺社地の三つから成る町と説明している。

百万都市だったのか

江戸の人口はどれほどだったのか。数字はいずれも推定である。内閣府の報告書は、町人だけの人口を、寛永11年(1634年)に約15万人、明暦3年(1657年)に約28万人、元禄6年(1693年)に約35万人、享保6年(1721年)に約50万人と推定している。

これに武家の人口50万人を加えると、総人口は約100万人になる。この推定によれば、江戸は当時のヨーロッパの都市と比べても、ずば抜けた巨大都市だった、と報告書は述べる。

解釈が分かれる

東京都の年表は、異なる数字を挙げる。1721年の諸国の田畑と人口の調査令の項に、江戸の人口を「約130万人程度」と記している。「百万都市」はあくまで推定であり、資料によって数字は異なる。

町人のための本

国立国会図書館によれば、18世紀後半の江戸は、町人の暮らしが豊かになり、文化が花開いた時代だった。図書館は、その時代を一人の版元、蔦屋重三郎(1750〜1797年)を通して紹介している。

蔦屋重三郎(蔦重)は、寛延3年(1750年)、幕府公認の遊郭である吉原に生まれた。安永元年(1772年)ごろ、吉原大門の近くで本を扱う商売を始め、その店はのちに「耕書堂」と呼ばれるようになる。

国立国会図書館も東京国立博物館も、蔦重は貸本業から身を起こしたとしている。版元としての活動は、吉原の案内本『吉原細見』から始まった。安永4年(1775年)に版権を手に入れ、天明3年(1783年)の初めまでには『吉原細見』の出版を独占した。

蔦重はやがて、絵草紙など大衆向けの本である地本の出版に乗り出す。滑稽な物語に時事や風刺を織り込んだ絵入りの読み物、黄表紙は、天明年間(1781〜1789年)に全盛期を迎えた。

洒落本は、遊郭を舞台に、会話を中心にして描いた読み物である。国立国会図書館によれば、初期の蔦重の戯作出版を支えたのは、余技として戯作を楽しんでいた武士たちだった。

天明3年(1783年)、蔦重は有力な版元が集まる日本橋の通油町に店を出し、江戸を代表する版元の仲間入りを果たした。

同じころ、和歌と同じ五・七・五・七・七の形で滑稽を詠む狂歌が江戸で大流行した。東京国立博物館によれば、狂歌には武士や町人、役者、絵師など、さまざまな階層の人が集まった。

蔦重自身も狂歌の仲間に加わり、狂歌本を出版した。国立国会図書館によれば、喜多川歌麿が絵を描いた狂歌絵本は評判になった。

改革と浮世絵への転換

天明7年(1787年)、松平定信による寛政の改革が始まり、華美な風俗の取り締まりや武士の綱紀粛正が進められると、空気は一変した。戯作から手を引く武士の書き手も出た。

寛政3年(1791年)には、蔦重が出した山東京伝の洒落本3冊が処罰の対象となった。国立国会図書館によれば、蔦重は身代(財産)を半分に減らされ、京伝は手鎖50日の刑を受けたと言われる。

同じ寛政3年ごろから、蔦重は浮世絵の出版に本格的に取り組んだ。歌麿の美人大首絵を出し、寛政6年(1794年)からは東洲斎写楽の役者絵を出版した。写楽はわずか10か月で約140点もの浮世絵を制作したと言われる。

蔦重は寛政9年(1797年)、病で世を去った。国立国会図書館は、吉原の貸本屋から一代で江戸を代表する版元となった蔦重を、まさに時代の風雲児だったと評している。

江戸の跡を訪ねる

旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部は、皇居東御苑として整備され、昭和43年(1968年)から公開されている。宮内庁の案内には、江戸城の天守台の写真も載っている。

入園は無料である。曜日や行事によって休園日があるため、出かける前に宮内庁のサイトで確認してほしい。

墨田区の江戸東京博物館は、東京都の発表と博物館の公式サイトによれば、約4年間の大規模改修を経て2026年3月31日にリニューアルオープンした。訪れる前に、最新の公式情報を確かめてほしい。

出典

  1. 重要文化財 旧江戸城田安門・清水門について(資料3-2)Agency for Cultural Affairs (document published by the Ministry of the Environment)
  2. 1657 明暦の江戸大火 報告書 第1章 明暦期にいたる歴史的背景Cabinet Office of Japan, Central Disaster Management Council (Expert Panel on the Transmission of Disaster Lessons)
  3. 東京都年表Tokyo Metropolitan Government
  4. 時代の風雲児・蔦屋重三郎(NDLギャラリー)National Diet Library
  5. 特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」プレスリリースTokyo National Museum
  6. The East Gardens of the Imperial Palace in TokyoImperial Household Agency
  7. 2026年3月31日 江戸東京博物館リニューアルオープン(報道発表)Tokyo Metropolitan Government
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