豊後国、今の大分県には、主に平安時代後期にさかのぼる、性格のまったく違う二つの仏教美術が残っている。国東半島に建つ富貴寺大堂は、阿弥陀仏の極楽浄土を堂内の彩色で表した木造の堂である。南の臼杵では、丘陵の岩肌に直接、仏の姿が彫り出された。
どちらも今は国宝である。この記事では、文化庁と、それぞれが所在する二つの市の説明に沿って、これらがどのように造られたのかをたどる。
寺院の半島
豊後高田市によれば、国東半島の六つの郷の谷々には「六郷満山」と呼ばれる寺院群が発展した。寺院は活動の目的によって、学問の本山、修行の中山、布教の末山の三つに分かれていた。
文化庁の日本遺産のストーリーは、六つの郷に最大65か所の寺院が開かれたと記す。豊後高田市は、国東半島が宇佐神宮・弥勒寺に伝わった天台宗の実践の場として、九州ではいち早く仏教が栄えた地域だと説明する。宇佐・八幡神の影響を受け、山岳宗教とも融合したため、神仏習合の文化が色濃い。
日本遺産のストーリーによれば、平安時代に密教が国東に入ると、「くにさき」の鬼は不動明王と重ねられるようになった。国東の不動明王には、丸顔で優しい表情の像が多いという。
ストーリーは、石に彫られた熊野磨崖仏も、こうした優しい表情の像に数えている。文化庁によれば、熊野の如来像は上半身だけが岩から現れた姿で現長約6.8メートル、その西約12.5メートルに不動明王像があり、現長約8.3メートルである。文化庁はどちらも平安時代の作とみなし、豊後の数多い優れた磨崖仏の中でも最も雄大なものとしている。
富貴寺大堂
富貴寺は、蕗川がつくる蕗の谷にある。寺伝では奈良時代の養老2年(718)の建立で、一人の僧を開基とする。しかし文化庁は、今の堂は平安時代後期の手法を示しているとし、データベースでも平安後期(1086〜1184年)の区分に置いている。
堂は正面3間、側面4間で、方柱を用いた簡素な姿である。屋根は今は頂点が一つにまとまる宝形造だが、文和2年(1353)の墨書がある古い棟木が残っており、文化庁は、かつては寄棟造だったこともあるようだとしている。
堂内では、4本の円柱が仏壇を囲み、天井は小組格天井である。各部には仏・菩薩や宝相華、唐草が極彩色で描かれ、本尊の後ろの来迎壁には浄土曼荼羅が描かれている。
本尊は阿弥陀如来坐像である。豊後高田市によれば、木造阿弥陀如来坐像と大堂壁画(いずれも国の重要文化財)によって、平安時代の人々が思い描いた極楽浄土の世界が表されている。
文化庁は、大堂を平安時代に盛んだった阿弥陀堂建築が全国に広がったことを示す好例とする。また『国宝辞典』を引いて、九州地方で最古の遺構としている。豊後高田市は、九州最古の木造建築と説明している。
時代を重ねた寺
文化庁によれば、富貴寺は貞応2年(1223)の文書に「蕗浦阿弥陀寺」として現れるのが初見で、当時は宇佐大宮司家が代々祈願を行う寺だった。
14世紀の南北朝時代になると、天台宗の六郷満山の末寺となっていた。そのころは、肥後の菊池氏とともに親王を支えた調氏の影響下にあり、この調氏が大堂の大修理を行った。
豊後高田市は、大堂の脇に立つ延文6年(1361)の板碑を紹介している。古い棟木の墨書にも名が見え、文和2年(1353)の修理に学頭として加わった僧の七年忌のために造られたものだという。
梵字を刻んだ笠塔婆もある。そのうち仁治2年(1242)の銘は、市によれば市内で最も古い。
梵字からは、阿弥陀如来への信仰を基調に、さまざまな信仰が混じり合った当時の密教の様子がうかがえる。文化庁は、大堂の周囲に鎌倉時代の笠塔婆5基と国東塔2基があるとしている。
文化庁は、境内の配置の珍しさにも触れている。六郷満山の寺院では講堂の背後に六所権現社と奥の院を置くのが通例だが、富貴寺は違う。これは、創建当初は六郷満山に組み入れられていなかったことを物語るという。
臼杵の磨崖仏
臼杵の磨崖仏は、臼杵の町の西方、丘陵の斜面に露出した熔結凝灰岩を開いて造られた。文化庁によれば、大きく古園・山王山・ホキ第一群・ホキ第二群の四群に分かれ、比較的浅い龕を穿ち、高肉彫で仏の姿を刻み出している。
文化庁は、豊後に集中する平安時代の磨崖仏の中で最大の規模を誇り、出来ばえが最も優れた石仏群としている。
解釈が分かれる
造営に関する史料は知られていない。文化庁は作風から、平安後期に規模の大半ができ、鎌倉時代に一部が加えられたと思われるとしている。臼杵市は、古園石仏を臼杵磨崖仏の中でも最古級とし、12世紀末から13世紀初頭の作かと考えられているとする。
地元には、ある長者夫妻や、磨崖仏を造ったとされる一人の法師の伝説があり、造立の謎に関わるとされるが、臼杵市はあくまで伝説だとしている。
古園石仏では、文化庁が丈六とする大日如来像を中心に、計13躯が並ぶ。臼杵市によれば、大日如来が智拳印を結んでいることから、金剛界曼荼羅を表したものとわかる。文化庁は、中尊と菩薩の一体の頭部を完全に岩から離して丸彫りとし、岩の足りない下半身の一部を別の材で造り足していると説明する。
山王山石仏は、如来坐像の左右に脇侍の如来像を置く三尊である。文化庁は、やや素朴な作風が、平安後期のこの地方の石仏造りの水準を示すとみる。臼杵市によれば、都の仏師にならって地元の人が彫ったと伝えられ、石の目をよく見て亀裂を避けるように彫られている。
ホキ石仏では、並んだ如来坐像や、両脇侍を伴う丈六の阿弥陀如来坐像が、文化庁のいう温雅な藤原様式を示し、当時の木彫の優品と比べても見劣りしない。市は、地蔵菩薩と十王の龕に彩色がよく残っていると紹介している。
修理と国宝指定
1962年に重要文化財に指定された当時、石仏はすでに傷みが激しく、頭部や体の一部が割れ落ちたものも少なくなかった。昭和55年度から平成5年度にかけての保存修理で、小さな断片に至るまで母岩に接合された。龕の前に仮に置かれていた古園の大日如来の頭部も、元の位置に戻された。
文化庁によれば、この修理を経て1995年に59躯が国宝に指定された。2017年には古園の金剛力士立像2躯が追加され、臼杵市は今、四群61躯としている。
市によれば、磨崖仏として全国で初めての国宝指定だった。一帯は特別史跡でもある。
訪れられる場所
富貴寺は豊後高田市にあり、今は天台宗の寺院である。大堂のそばには、宝暦11年(1761)の六所権現社と正徳5年(1715)の本堂が建つ。豊後高田市は、参道の石造文化財にも目を向けてほしいとしており、死者を裁く十王を刻んだ家の形の石殿などがある。
平成27・28年度の文化庁の事業で、大堂の文様の一部を彩色復元した模写画が作られ、富貴寺に届けられた。豊後高田市によれば、最新の研究を反映し、創建当時の色に近づいたものだという。
臼杵磨崖仏は臼杵市の深田・中尾にあり、文化庁は臼杵市を管理団体としている。拝観の時間や条件は、寺と臼杵市の公式サイトで確認してほしい。
出典
- 富貴寺大堂Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 富貴寺境内Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 熊野磨崖仏 附 元宮磨崖仏及び鍋山磨崖仏Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 鬼が仏になった里「くにさき」Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage Portal)
- 国東半島が誇る文化遺産「六郷満山」についてBungotakada City (Cultural Properties Office)
- 素通りなんてもったいない!富貴寺参道の石造文化財たちBungotakada City (Cultural Properties Office)
- 創建当時の輝きが甦る! 大堂壁画の彩色復元模写画が富貴寺に届きました!Bungotakada City (Cultural Properties Office)
- 臼杵磨崖仏Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 臼杵磨崖仏 附 日吉塔、嘉応二年在銘五輪塔 承安二年在銘五輪塔Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 国指定【国宝・重要文化財・特別史跡…】Usuki City
- 臼杵市内の文化財(国指定)Usuki City (Culture and Cultural Properties Division)