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From the Battle of Okinawa to Reversion

沖縄戦から日本復帰へ

1945年、沖縄では国内最大の地上戦が行われ、沖縄県平和祈念資料館によれば、軍人よりも多くの住民が亡くなった。この記事では、公的な資料が伝える沖縄戦の姿と、27年間のアメリカの統治、そして1972年の日本復帰をたどる。

約7分 · 出典 18件

1945年、沖縄は太平洋戦争で国内最大の地上戦の舞台となった。総務省は、一般の県民を巻き込んだ激しい戦闘によって、軍民あわせて20万余りの尊い生命と、財産や文化遺産が失われたとしている。

この記事では、沖縄県と国が伝える沖縄戦の姿をたどり、続いて27年間のアメリカの統治と、1972年5月15日の日本復帰までを紹介する。

上陸の前に

戦況が悪化するなか、1944年(昭和19年)7月7日、政府は南西諸島から老人・女性・子どもと学童を、九州へ8万人、台湾へ2万人疎開させる計画を決めた。実際に疎開したのは約7万人といわれる。

海を渡る疎開は危険をともなった。1944年8月22日、疎開者を乗せた対馬丸が悪石島の近くでアメリカの潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。総務省によれば、氏名が分かっているだけで1,484人が犠牲となり、そのうち学童は784人だった。

1944年10月10日のアメリカ軍の空襲(10・10空襲)では、那覇の市内の90%が焼け、軍民あわせて668人が亡くなった。

沖縄戦

1945年(昭和20年)3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島に上陸した。沖縄県公文書館によれば、4月1日には艦船約1,400〜1,500隻、兵員約18万3,000人をもって、読谷から北谷にかけての沖縄島の海岸で上陸作戦を始め、その日のうちに二つの飛行場を占領した。

慶良間諸島に上陸したアメリカ軍は、ニミッツ元帥の名で米国海軍軍政府布告第1号を公布し、日本の行政権と司法権の停止を住民に通告した。日本の第32軍は上陸地点での戦闘を避け、地下陣地に立てこもって持久作戦をとった。

飛行場が建設されていた伊江島では、4月16日から21日の戦闘で、一般住民約1,500人を含む4,700人余りが犠牲となった。沖縄島の中部では、40日以上にわたる一進一退の攻防が続いた。

アメリカ軍は首里城にあった軍司令部の防衛線に達し、5月11日から総攻撃を始めた。5月下旬、第32軍司令部は南部へ撤退し、首里は占領された。

南部は、避難民と敗走する日本軍が入り乱れる戦場となった。総務省は、アメリカ軍が艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などの近代兵器で攻撃し、日本兵や住民が隠れている壕にも攻撃を加えたことを伝えている。

師範学校や旧制中等学校からは、男子約1,500人、女子約500人の学徒が日本軍の補助要員として動員された。男子は陣地構築や運搬、通信の任務に、女子は陸軍病院などでの看護にあたり、男子約800人、女子約200人が亡くなった。

宮古・八重山では地上戦は行われなかったが、総務省によれば、日本軍の指示や命令によって多くの住民がマラリアの有病地である山中に避難・退去させられた。八重山地域では3,647人がマラリアで亡くなった。

解釈が分かれる

日本軍の組織的な戦闘は、6月23日の司令官の自決によって終わった。総務省は、22日とする説もあるとしている。

その後も各地で抵抗は続き、降伏文書に調印したのは9月7日だった。沖縄県平和祈念資料館は、沖縄戦の期間を1945年3月26日から9月7日までとしている。

戦場の住民

沖縄県平和祈念資料館の設立理念は、沖縄戦の最大の特徴は一般住民の戦死者が軍人をはるかに上回ったことで、その数は10数万に及んだとしている。砲弾で吹き飛ばされた人、追い詰められて自ら命を絶たされた人、飢えとマラリアで倒れた人、敗走する自国の軍隊の犠牲にされた人がいたと記している。

沖縄県は、資料館の展示の文章を公開している。それによれば、首里から南部へ撤退してきた日本軍は、陣地として使うという理由で、住民が避難していた壕や墓などを奪い、避難場所を追われた多くの住民が砲弾の飛び交う戦場で犠牲となった。

戦場では、親子や親類、知人同士が殺し合ったり、自ら命を絶ったりする集団での死が起きた。この出来事の呼び方は出典によって異なる。

文部科学省の教科用図書検定調査審議会の日本史小委員会による2007年の報告は「集団自決」と呼ぶ。資料館の展示は「日本軍の強制による集団死」という見出しを掲げ、沖縄観光コンベンションビューローの歴史の解説は「強制集団死(集団自決)」と書いている。

解釈が分かれる

この集団での死がどのようにして起きたかについては、見方が分かれている。沖縄県によれば、資料館の展示は、日本軍が住民と同居し、機密が漏れるのを防ぐため住民が米軍に投降することを許さず、「軍民共生共死」の指導方針をとったため、命令や強制、誘導によって各地で集団死が起きたとし、その背景に軍国主義教育があったと説明している。一方、2007年の高校日本史教科書の訂正申請をめぐる文部科学省の審議会の小委員会の報告は、軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなど、軍の関与は主要な要因ととらえることができるとしつつ、それぞれの集団自決が住民に対する直接的な軍の命令によって行われたことを示す根拠は、報告の時点では確認できていないとした。そのうえで、住民の側から見れば、さまざまな背景・要因によって自決せざるを得ない状況に追い込まれたとも考えられるとしている。

亡くなった人々

総務省は、昭和32年ごろに琉球政府が推計した数字を示しており、沖縄県平和祈念資料館も同じ数字を挙げている。戦没者20万656人のうち、沖縄県出身の軍人・軍属は2万8,228人、ほかの都道府県出身の兵は6万5,908人、一般の県民は約9万4,000人、アメリカ軍は1万2,520人である。

一般の県民の数は、昭和19年と昭和21年の人口をもとに推計したものである。沖縄県公文書館は、県民の約4人に1人が犠牲になったとしている。

27年間のアメリカの統治

アメリカ軍は、有刺鉄線で囲った収容所に住民を収容した。1945年10月末からは元の土地へ戻ることが許され、1946年4月までに約32万5,000人が帰ったといわれる。一方、アメリカ軍の基地として土地を接収された地域の住民は、集落ごと周辺へ移らざるを得なかった。

1946年1月29日、マッカーサーは北緯30度以南の南西諸島を日本から分離することを決めた。沖縄県公文書館は、新しい憲法など本土で行われた民主化の政策が、沖縄には適用されなかったと説明している。鹿児島県は、奄美群島を本土から行政的に切り離した連合軍最高司令部の覚書を1月28日のものとしている。

1952年4月28日に発効した平和条約によって、日本と連合国との戦争状態は終わり、日本国民の完全な主権が認められた。しかし条約の第3条で、日本は、アメリカを唯一の施政権者とする信託統治についてのアメリカのいかなる提案にも同意するとされた。提案は行われないまま、アメリカの直接統治は1972年5月14日まで続いた。

沖縄では、4月28日は「屈辱の日」と呼ばれるようになった。奄美群島は1953年12月25日に返還され、沖縄では1960年4月28日に沖縄県祖国復帰協議会が結成された。

日本復帰

1969年11月の日米首脳会談で、1972年中に沖縄の施政権を返還することについて原則的な合意が成立した。1971年6月に返還協定が調印され、1972年5月15日に協定が発効して、沖縄の日本復帰が実現した。

復帰記念式典は、東京と那覇で同時に開かれた。那覇の会場で、初代の沖縄県知事は、県民の要望と心情に照らせば、切なる願望が必ずしも入れられたとはいえないとし、その第一に米軍基地の態様の問題を挙げた。そして、これからもなお厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれないと述べた。

沖縄県の子ども向けの歴史のページは、27年間のアメリカの統治のあいだに建設された米軍基地が、今もなお存在していると記している。

訪れられる場所

沖縄県平和祈念資料館は、糸満市摩文仁の県営平和祈念公園の中にある。県民一人ひとりの戦争体験を結集して設立された資料館で、英語などの音声ガイドを貸し出している。

同じ公園には、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年に建設された「平和の礎(いしじ)」がある。国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ記念碑である。

2026年6月23日現在の刻銘者は24万2,659人で、この年には95人が追加された。沖縄県の「刻銘の基本方針」では、沖縄県出身者については、満州事変(1931年9月18日)から1945年9月7日の後おおむね1年以内までに、県内外で戦争が原因で亡くなった人も刻銘の対象としている。

沖縄県は6月23日を「慰霊の日」とし、毎年この日に平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式を開いている。開館時間などは、訪れる前に各施設の公式サイトで確認してほしい。

出典

  1. 沖縄県における戦災の状況Ministry of Internal Affairs and Communications
  2. あの日の沖縄 1945年3月26日、4月1日 米軍が慶良間諸島・沖縄本島に上陸Okinawa Prefectural Archives
  3. 沖縄戦(沖縄こどもランド)Okinawa Prefecture (Peace Promotion Division)
  4. 沖縄戦Q&AOkinawa Prefectural Peace Memorial Museum
  5. あの日の沖縄 1952年4月28日「対日平和条約」発効Okinawa Prefectural Archives
  6. あの日の沖縄 1972年5月15日 沖縄県知事として沖縄復帰記念式典へOkinawa Prefectural Archives
  7. 沖縄復帰50周年記念特別展National Archives of Japan
  8. 歴史概要(沖縄こどもランド)Okinawa Prefecture
  9. 奄美群島の概況 第1章 沿革Kagoshima Prefecture (Ōshima Branch Office)
  10. 沖縄県の歴史(おきなわ修学旅行ナビ)Okinawa Convention & Visitors Bureau (Okinawa Prefecture)
  11. 4.「慰安婦問題」「住民虐殺」に対する県の見解(第32軍司令部壕説明板設置の経緯と考え方)Okinawa Prefecture (Peace Promotion Division, Governor's Office)
  12. 平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology (Textbook Authorization Council, Second Division, Japanese History Subcommittee)
  13. 設立理念Okinawa Prefectural Peace Memorial Museum
  14. ご利用案内Okinawa Prefectural Peace Memorial Museum
  15. 沖縄戦Q&A(Q1 沖縄戦の期間は?)Okinawa Prefectural Peace Memorial Museum
  16. 4 「平和の礎」刻銘者数一覧(令和8(2026)年6月23日現在)Okinawa Prefecture (Peace Promotion Division, Governor's Office)
  17. 5 「平和の礎」建設の趣旨、基本理念、デザインコンセプトOkinawa Prefecture (Peace Promotion Division, Governor's Office)
  18. 1 「平和の礎」に係る刻銘の基本方針(『刻銘の基本方針』)Okinawa Prefecture (Peace Promotion Division, Governor's Office)