徳島で「阿波藍」という言葉には、はっきりとした意味がある。徳島県の説明によれば、藍の乾燥葉を発酵させてつくる天然藍染料を「すくも」といい、徳島で製造されるすくもを「阿波藍」と呼ぶ。布は藍の葉そのものではなく、すくもからつくった染料液で染められる。
江戸時代、この染料は全国の市場を支配するまでになった。この記事では、吉野川流域の畑から遠く離れた町の紺屋まで阿波藍をたどり、近代の衰退と今日の保存までを見ていく。
川がつくった作物
吉野川は徳島県の北部を東西に流れる。徳島県によれば、かつての吉野川には堤防がなく、台風の時期には大雨で毎年のように氾濫した。
台風は稲刈りの前に来ることが多く、稲作には大きな損害の危険がつきまとった。台風の前に刈り取りが終わる藍作は、この土地に適した産業だった。
洪水は住民にとって非常に危険な水害だった。一方で県は、洪水が収穫後の藍畑に肥沃な土を運び込み、同じ土地に続けて植えることの難しい藍の連作を可能にした面もあったと説明している。
阿波藍の日本遺産のストーリーも、暴れ川だった吉野川からは当時の灌漑技術では直接水を取ることが難しく、流域では稲作がほとんどできなかったと述べている。
古い記録
解釈が分かれる
阿波で藍の栽培がいつ始まったのかは確かではなく、説明は資料によって異なる。
解釈が分かれる
徳島県は、起源は定かではないとしている。日本遺産のストーリーは平安時代の終わりに栽培が始まったとし、藍住町の藍の館は、山間部で阿波忌部氏が織った荒妙を染めるため、平安時代から栽培し始めたと伝えている。
より確かな手がかりは1445年にある。県は、この年の「兵庫北関舩入納帳」に藍の積み出しの記録が残ることから、室町時代には阿波藍がすでに製造され流通していたと考えられるとしている。
藍住町は、文安2年(1445)には大量の葉藍が畿内に出荷されたと説明している。徳島県立博物館も、阿波での藍の栽培は室町時代までさかのぼることが確認されているとする。
藍住町によれば、戦国時代には武士がよろいの下に着る衣を藍で染めようとしたことから藍の需要が高まり、三好氏の城下町・勝瑞で藍玉の加工が本格化した。日本遺産のストーリーはより慎重に、室町時代後半に勝瑞城下で藍染料に加工されるようになったといわれている、と書いている。
藩と全国市場
徳島県立博物館によれば、1585年に蜂須賀家政が豊臣秀吉から阿波国を与えられ、蜂須賀氏は明治維新まで阿波・淡路の2国を治めた。藍住町は、徳島藩が1585年以来藍の生産を奨励し、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立していったと説明している。
県は、江戸時代の阿波藍の繁栄に3つの理由を挙げる。大阪周辺で綿が栽培されるようになり、綿と相性のよい藍染料の需要が増えたこと。
藩の保護奨励によって製藍技術の改良と品質向上の努力が続けられたこと。三つ目は、徳島の地理と気候が藍作に適していたことである。
県によれば、1700年代には阿波藍が全国市場を支配するようになった。
日本遺産のストーリーは、犬伏久助が加工技術を改良したことを挙げている。品質の高まった阿波の藍染料は「本藍」と呼ばれ、販売特権を与えられた藍商人は藩に莫大な利益をもたらした。
徳島県立博物館は、江戸時代の阿波藍が藩の専売政策によって藍の全国市場を独占したと説明する。国の文化財の記録も、阿波藍は江戸後期にいたって他の産地を圧し、名声をはせたと記している。
葉からすくもへ
博物館は、藍づくりを種まき、藍こなし、すくもの製造、藍玉の加工の4つの過程に分けている。種まきは旧暦1月の節分のころに行われた。6〜7月の収穫の後、刻んだ葉を乾燥させる。
8月には葉をむらなく発酵させる「寝せこみ」によってすくもの製造が始まる。できたすくもは臼でついて藍玉に加工され、11月ごろ全国へ出荷された。
発酵の作業は「寝床」と呼ばれる加工場で行われる。日本遺産のストーリーによれば、積み上げた藍の葉に水を打ち、かき混ぜる作業が秋から冬にかけて何度も繰り返される。発酵の温度は60度を超え、寝床の中には湯気と刺激的なにおいが立ちこめる。
その温度とにおいが仕上がりを知る目安となり、初霜のころ、葉は黒い土の塊のようなすくもになる。県は、製造には1年近い時間がかかり、そのうち約100日間、細やかな温度管理のもとで発酵させると説明している。
すくもに含まれる藍色の色素は水に溶けないため、染める人は石灰や木の灰汁などアルカリ性のものと合わせて1週間ほど発酵させる。この染料液に浸けた布を空気にさらすと、色素が酸素と反応して定着し、水で洗うと鮮やかな藍色が現れる。
藍商人とその広がり
阿波藍を全国へ届けたのは藍商人だった。徳島県立博物館によれば、生産から販売までをすべて行う有力な藍商人が数多くいた。
なかでも関東や大坂の売場株を持った久次米・三木・西野・田中・奥村家などは豪商として知られる。博物館の学芸員は、藍商人が江戸や大坂をはじめ各地に売場株という制度と組織を置いていたと説明している。
その足跡は石に残っている。徳島市勢見町の金刀比羅神社の常夜燈には「御国産藍玉大阪積」の大きな文字が刻まれ、側面には「天保十己亥年(1839)三月吉日」(旧暦)とある。市内のほかの常夜燈や玉垣には、今の福岡県・大分県方面や、兵庫県から京都府にかけての地域へ藍を売った商人仲間の名が見られる。
国府村の手塚家は江戸に支店を持ち、関東一円に藍を売った。残された古文書951点の大半は、手塚家から藍玉を仕入れた紺屋の借用証文である。文化10年(1813)の証文では、下野国足利の紺屋が300両を借りており、その理由は藍玉代金の支払い不足によるものと考えられている。
小松島浦に拠点を置いた井上家は、駿河国に支店を持っていた。その「藍売帳」には、駿河を中心に171の取引相手の名前が記され、その多くは紺屋と考えられている。
日本遺産のストーリーによれば、藍商人たちは全国から買い付けに来る商人の信用を得るため、競って豪壮な屋敷を構え、手厚くもてなした。また、人形座をたびたび招いて人形芝居を楽しんだことから、阿波人形浄瑠璃が隆盛したとしている。
徳島県立博物館は、徳島藩の農民が重い年貢を納める義務を負い、きびしい身分制のもとで統制されていたことも記している。
衰退と保存
県によれば、阿波藍の繁栄は1800年代まで続き、1903年には徳島の藍の栽培面積が約1万5千ヘクタールでピークを迎えた。しかしその後、インドからの沈殿藍とヨーロッパからの合成藍の輸入が増え、生産量は激減した。藍住町は、明治30年代(1897〜1906年)にドイツから化学染料が大量に輸入されたことで衰退期に入ったと説明している。
それでも技術は受け継がれた。1978年5月9日、阿波藍製造は国の選定保存技術に選ばれた。その記録には、良質のすくもが手に入りにくくなり、阿波藍以外の藍はほとんど入手できないと記されている。
2019年には、藍住町を代表とする徳島県の9市町のストーリー「藍のふるさと 阿波」が日本遺産に認定された。県によれば、今も藍師の手で阿波藍が製造され、その生産量は全国の大半を占めている。
訪れられる場所
藍住町歴史館「藍の館」* 大藍商だった旧奥村家の屋敷13棟と約13万点の奥村家文書が1987年に藍住町へ寄附され、1989年に開館した。寝床には藍の栽培・加工に使われた道具が展示され、館はそうした道具のうち国の指定を受けた93点を所蔵している。播種から出荷までの24場面を紙人形で再現した展示もある。
美馬市脇町南町(うだつの町並み)* 吉野川の北岸にあり、江戸時代から阿波藍の集散地として栄えた商家町。18世紀初め以降の町家が本瓦葺の重厚な構えと装飾的な「うだつ」を見せる。1988年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
開館時間などは、各施設の公式サイトで確認してほしい。
出典
- 阿波藍Tokushima Prefecture
- 徳島県立博物館 常設展示 5 藩政のもとでTokushima Prefectural Museum
- 探してみよう!!藍商人活躍の足跡Tokushima Prefectural Museum
- 阿波藍商 手塚家資料Tokushima Prefectural Museum
- 「正雪紺屋」で使われた阿波藍-阿波と駿河を結ぶ藍-Tokushima Prefectural Museum
- 藍のふるさと 阿波~日本中を染め上げた至高の青を訪ねて~Japan Heritage Portal, Agency for Cultural Affairs
- 阿波藍製造Agency for Cultural Affairs, Government of Japan
- 令和元年度「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果の発表及び認定証の交付について(報道発表資料PDF)Agency for Cultural Affairs
- 藍の館Aizumi Town
- 建築美と歴史・展示室(藍の館)Aizumi Town
- 美馬市脇町南町(徳島県)重要伝統的建造物群保存地区の概要Mima City (published on the Agency for Cultural Affairs website)
